私が説教を担当する際、礼拝で読み進めてきたコリント人への手紙第一もついに最終の16章となります。
紀元1世紀の昔ギリシャには繁栄した二つの町がありました。一つは哲学、芸術、文芸が盛んなアテネ、もう一つは経済的な豊かさを謳歌したコリントです。アテネは文化都市、コリントは経済都市。二つの町は対照的でした。そして、どちらの町にもキリスト教の福音は伝えられましたが、使徒パウロが教会を建てることが出来たのはコリントの方だったのです。
しかし、経済的な繁栄を極めたコリントの町もその裏側では道徳が腐敗し、偶像礼拝が盛んで、人々の心は欲望と快楽、虚栄心に支配されていました。当時「コリント人のように生きる」と言えば、不品行な人の代名詞でもあったのです。
そんな町に教会が建てられたのが紀元50年頃。その後一旦コリントを離れたパウロがエーゲ海を挟む対岸の町エペソで宣教中のこと、コリントの教会から残念な知らせが届きました。分裂、性的不道徳、富める者と貧しい者の不和、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱、死者の復活を疑う人々の存在等、「これが本当にキリスト教会なのか」と驚くような問題ばかりでした。
パウロが建て上げたにもかかわらず、コリントの教会は決して順調に成長したわけではなかったのです。むしろ、コリントの町に良き影響を与えるべき教会が、逆に悪しき影響を受け、未熟な状態にとどまっていたのです。そして、これまで教会が抱える一つ一つの問題に処方箋を示してきた使徒はこの16章で最後の問題を扱っています。それは義援献金についてでした。
16:1~2「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。」
ここの「聖徒たち」とはエルサレム教会の兄弟姉妹たちのことです。エルサレムの教会はすべての教会の母と呼ばれています。新約の教会はエルサレムに誕生しました。教会にとって重要な教理はエルサレム教会で決定され、福音もエルサレム教会から世界に広がっていったからです。
しかし、その頃エルサレム教会は貧しさに悩み、苦しんでいました。もともと貧しい人々が多かったところにユダヤ教徒から迫害され、教会のメンバーは四方に離散しました。加えて当時ユダヤの国が飢饉に襲われたため、エルサレムの教会は慢性的な貧困に陥っていたのです。
パウロがこれを放っておくはずもなく、問題解決のためにいかに力をつくしたか。使徒の働きや手紙にその奮闘ぶりを見ることが出来ます。パウロには「異邦人の教会がエルサレムの教会を助けることによって、異邦人の教会とエルサレムの教会が一つになることが出来る」、そんな願いがあったのです。
既に献金の要請は「ガラテヤの諸教会に命じたように」とある通り、コリント教会よりも前に他の教会に発せられていました。パウロは「すでにガラテヤの教会が取り組んでいるように、あなたがたも取り組むように」と言うのです。また、自分がコリントに到着してから献金を集め始めなくてもよいように、「それぞれ、週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。」と具体的な指示を出しています。
コリントの教会には富める者も貧しい者もいました。ユダヤ人もいればギリシャ人もいました。既婚者もいればやもめもいる。自由人もいれば奴隷もいる。教会のメンバーは多種多様でした。収入も異なれば、社会的立場も異なる。家庭環境だって異っていたのです。だから、各々が無理のないように、少しずつ積み重ね、私が行く時までに献金とすればよいと使徒は励ましているのです。
なお「週の初めの日」とは言うまでもなく日曜日のことです。これによって、当時すでに日曜日がクリスチャンたちの礼拝の日として定着していることが分かります。生まれたばかりの教会はユダヤの習慣通り、安息日の土曜日に神殿や会堂で行われていた礼拝に参加するとともに、日曜日には教会員の家に集って聖餐式と交わりを行っていました。最初の頃クリスチャンたちは二つの礼拝に参加していたのです。それが、キリスト教会がギリシャローマの世界に広がるにつれ、徐々に主イエスの復活を記念する日曜日の礼拝が中心になっていったと考えられます。
さらに、献金の貯え方についての指示が終わると、今度は送金についてです。
16:3~4「私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。」
パウロは自分自身が献金に手を触れぬよう細心の注意を払っています。コリント教会の人々が献金を蓄え、彼ら自身が献金を保管し、彼ら自身が選んだ使者が挨拶の手紙を携えて献金を送るようにと命じるのです。但し、「もしあなたがたが私もともに行く方が良いと考えるなら、使者に選ばれた人々は私と共にゆくことができますが」とも助言しています。実際、後に使徒が各教会の使者を連れてエルサレムの教会に献金を届ける姿を使徒の働きは描いていました。
それにしても、何故ここまで献金の取り扱いにパウロは慎重なのでしょうか。実はこの手紙の後に書かれたコリント人への手紙第二には、パウロを献金詐欺呼ばわりし、その心を苦しめるコリント教会のメンバーが登場します。この第一の手紙を送った時点で、すでに使徒はこうした人々の存在に気がつき、あらぬ疑いをかけられないようにしたのでしょう。献金の取り扱いはくれぐれも公明正大にと教えられるところです。
こうして、献金の勧めを終えると、使徒はコリント教会訪問の予定、計画についてこう告げます。
16:5~9「私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。しかし、五旬節まではエペソに滞在します。実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。」
パウロはこの時点でエペソに滞在していました。エペソからエーゲ海を船で渡り、陸路マケドニアを通りコリントを訪れる。日本地図で言えば、青森県から長野県までの距離に当たる旅です。先ず五旬節つまり春の間はエペソに滞在し、夏にマケドニアを通り、冬をコリントで過ごした後、翌春はエルサレムに向かう。これが彼の計画でした。しかし、この個所、単なる旅のスケジュールを知らせる情報、インフォーメーションではありません。パウロが地上の人生において何を大事にしていたかを私たちに伝えているのです。
先ずパウロは今回の旅の目的はコリント滞在であると語っています。そのため途中に存在するマケドニア地方はただ通過するだけだと言うのです。今日マケドニア共和国はギリシャ正教の国として知られていますが、当時既に教会が存在しました。この地方に最初にキリスト教の福音を伝え、教会を建てたのはパウロ自身なのです。そこには、パウロを支援する教会がありましたし、難問を抱えパウロの助けを求める教会もあったのです。
それにもかかわらず、「マケドニアはただ通過するだけで良い。私はあなた方のところに滞在したい。旅のついでにあなた方に会うようなことは決してしたくはない。たとえ冬を越すことになっても良いからあなた方の町に滞在したい、そしてどこに行くとしても、私はあなた方に見送られて出発したい。」そう使徒は語るのです。
「あなたがた」と言う言葉が繰り返され、強調されています。単に手紙を書き送るだけでは事足りず、コリント教会の人々と直接会い、彼らに聖書を教え、戒め、励まし、祈り、交わりをなしたい。そんなパウロの並々ならぬ思いが伝わってくるのです。
しかし、パウロにとってコリントの教会とはどの様な存在だったのでしょうか。そこには教会指導者としてのパウロの能力を他の使徒と比べ、低く評価する者がいました。この世の常識からしても酷い罪を犯した者、それを戒めようともしない者がいて、厳しく叱責されました。使徒の権威を認めない者もいました。貧しい兄弟を辱める者、賜物誇って争う者たちもいたのです。
もし、私がパウロの立場であったら、長く滞在したいとか、ゆっくり交わりたい等とは思えない教会です。むしろ、私だったら自分を支持し支援してくれるマケドニアの教会に長く滞在したいと考えるでしょう。しかし、パウロは違うのです。愛しにくい人を愛し、仕えにくい人に仕え、交わりをなし難い人と交わることを切に願っていたのです。
私たちが人を愛するという時、人に仕えるという時、人と交わるという時、このパウロの姿勢があったのかどうか、あるのかどうか。一人一人心を探られるところです。
ところで、五旬節まではエペソに滞在するつもりだと書かれていますが、その理由は何だったのでしょうか。すぐにでもコリントに出発したいと思っていたはずのパウロが、何故五旬節まではとどまろうと考えていたのでしょうか。
それは、五旬節がエペソに住むユダヤ人伝道の絶好の機会、チャンスだったからです。使徒は「実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれている」と語っています。五旬節はユダヤの伝統的な祭りであり、その祭りにはエペソや近隣の町から大勢のユダヤ人が毎年集って来ました。五旬節の祭りこそ、実り多い働きをもたらす門つまり福音伝道の絶好の機会だったのです。
けれども、このチャンスは同時に危険を伴うこともパウロは自覚していました。「反対者も大勢いるから」と言う通りです。そして事実、この時エペソの町で大きな騒動が起こったらしいのです。
使徒の働き19章には、アルテミス神殿の模型を造り、収入を得ていた銀細工人とその職業組合のメンバーがパウロに激怒し、町中を巻き込む大騒動が起こった事が記録されています。パウロが「手で造った神殿の模型など、神ではない」と言って商売の邪魔をしたと職人たちは考えたからです。町の守護神アルテミスが侮辱されたとエペソの人々も怒りを感じたからです。
この騒動のことを指しているのかどうかは断定できませんが、前の15章で使徒は「エペソで獣と戦った」と語り、エペソで命の危険、死の恐怖を覚えたことを記しています。
しかし、たとえ騒動が待っていようと、命の危険が待っていようと、五旬節という伝道にとって絶好の機会を逃すつもりはないとパウロは言うのです。9節「私は一日も早くあなた方のところに行き、あなた方のところに滞在したいのです。しかし、五旬節まではこのエペソにとどまります。」
以上、コリント第一16章前半を読み終える時、献金にせよ、交わりにせよ、伝道にせよ、パウロが教会の使命とは何かを良く意識していたことが分かります。特に主イエスの再臨を意識しながら生きていたパウロの姿が目に浮かんでくるのです。そのパウロの勧めです。
16:13~14「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」
「目を覚ましていなさい。」とは、主イエスがいつ再臨してもおかしくはない時代であることを思い、主のわざに励むようにとの勧めです。パウロは「雄々しく、強くありなさい。」として、私たちが一時的な熱心からではなく、大人らしく責任をもって主のわざを成し続けるよう命じているのです。一切のことを、主イエスの愛をもって行うよう、私たちを励ましているのです。
果たして、私たちは主イエスの再臨を願っているでしょうか。主イエスがいつ再臨してもおかしくはない時代であることを意識しているでしょうか。主イエスの再臨を待ち望む私たちに、励むべき主のわざがあることを自覚しているでしょうか。貧しさに苦しむ教会、乏しさに悩む世界の隣人へのあわれみのわざも、霊的な益をもたらし、霊的な益を受け取る交わりも、主イエスの福音を伝えることも、二千年前と変わることなく、今も私たちが励むべき主のわざなのです。
果たして、今この時代、私たちの目は貧しさに苦しむ人々の存在に開かれているでしょうか。私たちの心は励ましや慰めをもたらす交わりを必要としている兄弟姉妹の存在に開かれているでしょうか。たとえ困難があったとしても、反対されても、嘲られたとしても、機会をとらえて福音を伝える覚悟があるでしょうか。
主のわざに励もうとする時、私たちは自分のものを人に与えることを惜しむ罪に気がつきます。愛しにくい人を避け、親しみやすい人との心地よい交わりにとどまろうとする弱さを自覚します。自分が救われたことで満足し、福音を必要とする人々の存在を忘れてしまうことさえあるのです。
しかし、救いの恵みを受けたにもかかわらず、なおも罪深い私たちを主イエスは愛しているのです。神の子とされたにもかかわらず、人を愛する思い乏しく、人に仕える力において弱き私たちを主イエスは決して見放しはしないのです。
主イエスは今も愛されるに値しない私たちを愛し、罪深い私たちに仕え、弱き私たちの信仰の歩みを支えてくれているのです。主イエスの忠実なしもべとして、再臨の主イエスを迎えられれるよう、私たち四日市キリスト教会はあわれみのわざにも、交わりにも、伝道にも励んでゆきたいと思うのです。
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