信仰生活の悩みの一つに「良い行い」があると思います。キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことはない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、自堕落の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えられていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。救いの為に良い行いをするのではありません。神様から愛されるために良い行いをするのではありません。救われた者として、愛された者として、神の子らしい良い行いをするように教えられています。更に言えば、私たちが良い行いを出来たるとすれば、それ自体が大きな恵みでした。
恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいことです。信仰者らしいと思う生き方が出来たら、自分を立派なクリスチャンだと思う。反対に、信仰生活が不調にあるように見える仲間を見ると、駄目なクリスチャンだと決めつける。良い行いが出来た時に、それを感謝するよりも、自分の株をあげる材料にしようとする思いが出てくる。私たちは、良い行いによって、自分自身も、他の人も評価しようとする傾向があるように思います。いかがでしょうか。良い行いについて、このような思いを抱いたことはないでしょうか。
六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算五十九回目、新約篇の二十回目、ヤコブ書となります。ヤコブ書と言えば、信仰者の行いに焦点が当たっていることで有名な書。この書を通して、恵みと行いがどのような関係にあるのか。私たちはどのような生き方をする者として召されたのか。よく考えていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。
ヤコブの手紙ですが、お気づきでしょうか、書名にこれまでと違いがあります。これまで確認した手紙はパウロが書いた手紙と、著者不明のヘブル書でした。そのため、書名は宛先の名前がつけられ、〇〇への手紙となっていました。しかしここからは、〇〇の手紙となりまして、書名は著者の名前がつけられます。ヤコブ書は、ヤコブへの手紙ではなく、ヤコブが書いた手紙。
この手紙は次のように始まります。
ヤコブ1章1節
「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。」
ヤコブから離散している十二部族へ。この離散している十二部族とは、世界中にいる神の民を意味すると考えられます。キリストを信じる全ての者を意識して記された手紙。普遍的な内容が期待されるところです。
著者のヤコブは、イエス様の肉の兄弟、弟ヤコブのことだと考えられています。イエス様の弟たちは、もともと兄であるイエスが約束の救い主であるとは信じていませんでした。(ヨハネ7章5節)しかし、ある時点で兄のイエスはキリストであると信じ、やがてエルサレム教会で指導的な役割を担うようになります。聖書には記されていませんが、伝承ではよく祈る人と言われています。石畳に膝をついて祈るため、ヤコブの膝は節くれだち、ラクダのようになっていたと言います。ラクダ足のヤコブによる普遍的、説教的な手紙。
この手紙の中心的なテーマは次の節にまとめられていると考えられています。
ヤコブ1章22節
「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」
先に確認しましたように、ヤコブ書は信仰者の行いに焦点が当たっていることで有名な書。ところで、信仰者の行いというのは世間一般が考える善行ではありません。道徳的、倫理的に立派であるということでもありません。信仰者の行いとは、みことばを行うこと、聖書で教えられたことを実行することです。神の言葉を行うように。耳で聞いて終わりではない。全身で聖書に取り組む真剣さを持つようにと教えられます。
過ぎし一週間、私たちはどれだけ真剣にみことばを行おうと取り組んできたでしょうか。聖書で教えられたことを実行することに取り組もうと考えてきたでしょうか。多くの場合、私たちは自分がやらないといけないと感じていること、やりたいと思っていることに夢中になって一日を過ごしてしまいます。聖書を開かないで一日が始まり、聖書を開かないで一日が終わることが往々にしてあります。私たちにとって、みことばを行うことがとても大事であるとのメッセージをしっかりと受け止めたいと思います。
このみことばを行うことがいかに大事であるかということを、あの手この手で語るヤコブですが、その教えが強烈な言葉でまとめられるのが手紙の白眉と言える部分、二章の中盤に展開されます。
ヤコブ2章14節~17節
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」
ある人が自分には信仰があると言っても、行いがないとしたら。それはどんなものかと言えば、困っている人に優しい言葉をかけても、指一本動かさないようなもの。言行不一致の醜さが際立つ表現。ヤコブは、もし行いが伴わない信仰があるとしたら、何の役にも立たない、それは死んだものだと言い切ります。
「ムムム」と唸るところ。もし目の前に、イエス様を信じてはいるけれども、聖書になかなか従えないと悩む人がいたとしたら。私などは、「そうですよね。難しいですよね。」「私たちは罪赦された罪人ですから、しょうがないですよね。」「私もそうです。私も従えないことが多くあります。」と言いそうです。しかしヤコブは、行いの伴わない信仰は役に立たない、死んでいると言い切ります。強烈、激烈な言葉。しかし、どこか甘えのある私たちには、冷水をぶちかけるような、ヤコブの言葉が必要です。
ところで、ここでヤコブが言う「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだもの」という表現はとても重要な言葉です。聖書で「死」というのは「分離する」こと、その結果「本来の状態ではなくなる」ことを意味します。
信仰も行いが伴わないと、死んでいる。それはつまり、本来、信仰というのは聖書に従う行いが伴うもの。信仰と行いは切り離して考えることが出来ない。キリスト教は恵みの宗教というのは当然のこととして、自堕落な宗教、放縦な宗教ではないと言っているのです。キリストを信じる者は、信じて終わりではない。必ずや聖書に従う行いへと導かれるというのが、ヤコブの主張となります。
ところで、ヤコブは当然のこととしていて詳しく触れませんが、なぜ行いの伴わない信仰は死んだものなのでしょうか。それは、キリストを信じるというのは、キリストと一つとなり、キリストの命を頂くことだからです。神を愛し、隣人を愛する歩みを実践されたイエス様と一つとなる者は、その愛を持たないはずがない。主イエスへの真実な信仰は、その者のうちに行いを生み出すのです。「キリストを信じる者は、キリストの命を頂く。キリストの命を頂いた者は神を愛し隣人を愛する者へ変えられていく。」これを裏返して言えば、「行いのない信仰は死んだもの」なのです。
ヤコブは続けて、生きた信仰、死んだ信仰がどのようなものか述べていきます。
ヤコブ2章18節
「しかし、『ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。」
信仰者の中に「信仰も、行いも、神様が賜物として下さるもの。信仰は頂いて行いは頂いていない人。反対に信仰は弱くても行いに強い人もいる。信仰と行いは切り離して考えるべきではないか。」という意見の人もいたようです。分かる気がします。
信仰を持ったら、すぐに聖書が教える通りに生きられるかと言えば、そうではありません。キリストの命を頂いても、自分に残る罪との戦いがあります。神様は信仰を下さったけれども、まだ行いは頂いていない。行いを頂いたら取り組みますと考えたくなります。
しかしヤコブはそのような考えを一刀両断します。確かに信仰も行いも神様が下さるもの。しかし、それは別々に与えられるものではなく、一つとして与えられるもの。信仰だけ与えられて、行いが与えられないということはない。信仰は与えられているけれども、行いは与えられていないと考えるのは、すでに与えられているものを見ていないことになる。
信仰と行いは一つ。そのため、「行いによって、信仰を見せる」とまで言います。凄い言葉、大胆な言葉。自分の生き方を通して、キリストの命を示す。そのように言いきるヤコブの強さを見ます。そして、もし信仰と行いを切り離せるというなら、それはキリストを信じていることにならないとダメ押し続きます。
ヤコブ2章19節
「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」
信仰と行いを切り離して考えるとはどのようなことか。行いの伴わない信仰、死んだ信仰とはどのようなものか。本来の信仰は、キリストと一つになること、キリストの命を頂くこと。そのため信仰を持つ者は、聖書に従う者へ変えられていく。
仮に、そうではない信仰があると言うならば、それは知識だけのものとなる。「神は唯一である」とは、完全に正しい神学的知識です。その全く正しい教えを、悪霊どもも信じている。しかし、悪霊どもはキリストと一つになるとか、キリストの命を頂くことはない。聖書に従うことなく、身震いしているのだといいます。信仰と行いを切り離して考えることはいかに危険なのか、教えられるところです。
このように前半で繰り返し、信仰とは行いが伴うもの。そのためキリストを信じる者は、神のことばを聞いて行う者であると語ったヤコブは、具体的に、信仰者の行いについて語ります。
信仰者はどのように生きるのか。ヤコブが挙げる具体例にはいくつかの特徴を挙げることが出来ますが、一つの特徴は「ことば」に注目があること。
ヤコブ3章2節、8節~10節
「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。…しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」
良い行いと聞くと、何かをすることをイメージしやすいと思います。しかしヤコブが注目するのは、舌を管理すること、ことばを正しく使うこと。信仰者の行いとして「ことば」が注目されていることが印象的です。ヤコブは三章でも、四章でも、五章でもことばを大切に使うように、繰り返し語ります。強調点の一つは「ことば」です。キリスト教はことばの宗教。神様がこの世界を造られた時、神のことばによりました。キリストは「ことば」と表現さています。そして、私たちの救いも神のことばによると言います。キリストのいのちを頂く私たちは、ことばを正しく使う者とされた者。
過ぎし一週間、私たちはどれだけことばを大切に使ってきたでしょうか。どれだけことばで自分を傷つけ、人を傷つけてきたでしょうか。神様をほめたたえた舌が、他の人を呪うなんてことはあってはならないとの忠告をしっかりと受け取りたいと思います。
信仰者はどのように生きるのか。ヤコブが挙げる具体例のもう一つの特徴は、お金に対して。具体例を挙げて忠告し、お金もちには指をさして注意します。
ヤコブ2章1節~4節
「私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。」
神か富か。おそらく、この世の多くの人は富に手を挙げるでしょう。しかしイエス様は、「神にも仕え、富にも仕えることは出来ない」と言われました。キリストを信じる者は、どのように生きるのか。もちろん、神に仕える者。集会にも集う。しかし、そのキリスト者の集まりの中で、差別が起こるとしたら。そのようなことはあってはならないと忠告が響きます。ヤコブが挙げる具体例を前に、ここまで露骨なことはないにしても、このような心根がないか、心がさぐられるところです。
お金持ち自身には次のように言われています。
ヤコブ5章1節~3節
「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。」
聖書に従って生きるという時、お金がいかに誘惑となるのか。ヤコブは失敗した者たちの姿を多く見てきたのでしょう。この世の成功、この世の富に、私たちがいかに心を奪われやすいのか。手紙の中で繰り返し忠告が響くことになります。
以上、簡単にですがヤコブ書をまとめました。あとは是非とも、ご自身で読み通して頂きたいと思います。同じことをあの手この手で繰り返し言うヤコブの情熱。強烈な表現で、私たちの目を覚ませようとするヤコブのことばを、しっかりと味わいたいと思うのです。
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