皆様は「サザエさん」というテレビ番組をご存じでしょうか。1969年に始まったテレビ版「サザエさん」は現在に至るまで50年以上親しまれている国民的長寿番組と言われます。例え熱心な視聴者ではなくても、サザエさんを始めとする磯野家の家族構成やそれぞれの顔など、多くの人は思い浮かべることが出来るのではないかと思います。
意外なのは磯野家のメンバーの年齢設定です。公式ホームページによれば主人公のサザエさんは24歳、お婿さんのマスオさんは28歳、サザエさんのお父さんの波平さんは54歳。いくら原作が1950年代初期の時代設定とは言え、今の私たちの感覚からすると、磯野家の人々は実年齢より貫禄があるというか、老けているというか。相当な違和感を覚えます。
尤も当時会社員の定年は55歳、男子の平均寿命は63歳ですから、波平さんの貫禄もその頃としてはごく普通のことだったのかもしれません。それから70年が経ち、日本人の平均寿命は男子81歳、女子87歳。20年後には男子が84歳、女子が91歳に伸びるとの予測もあります。昨今は人生100年時代、人生設計は100年を目途にと言われるようにもなりました。
果たして皆様はこれを聞いてどう思うでしょうか。長寿の時代に喜びを感じるでしょうか。それとも、健康、経済、孤独など、労苦多き人生が延びることは大変だと感じるでしょうか。しかし、いずれにしても、どれ程医学が発達し、寿命が延びたとしても精々が二けたの後半か、三桁の前半。遅かれ早かれ、人が皆死に直面しなければならないという現実に古今東西変わりはありません。
「生まれては 死ぬるなりけり 釈迦も達磨も 猫も杓子も」とは一休禅師の歌です。宗教家も知者も、猫も杓子も、命あるものは誰も彼も等しく死に呑まれてゆく。人生の無常、虚しさを歌っています。旧約の昔、賢者として知られたソロモン王も同じことを述べています。
伝道者の書2:14,16~17「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。…事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」
3:19~20「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る」
学問をつんだ者もそうでない者も同じく死んでゆく。努力して仕事をした者もそうでない者も皆死んで忘れられてゆく。この地上で労苦することは虚しく、風を追うようなものだ。同じく死んで土に帰るという点からすれば、人間は獣にまさるものではない。徹底した悲観主義です。
他方、悲観主義への反動から徹底した快楽主義も生まれてきます。その生き方はこの手紙の15章の前半に使徒パウロ自身の言葉として記されていました。
Ⅰコリント15:31~32「兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。」
投獄、迫害、暴力、病。使徒は日々死の危険と隣り合わせの人生を生きていました。「この労苦と危険多き地上の人生がすべてだとしたら、死をもってすべての働きが無駄になるのだとしたら、思いのまま快楽を貪る生き方に私も賛成する。」とパウロは言うのです。
悲観主義か快楽主義か。この地上の人生がすべてであるなら、悪が栄え善が廃れるこの世界がすべてであるなら、知恵を積んでも積まなくても、努力をしてもしなくても、死をもってピリオドが打たれる人生がすべてであるなら、人間が選ぶ生き方はこの二つしかないのかもしれません。そして、もし悲観主義者ではないとしても、生きている限り誰もが悲観的な気分に陥ることがあります。もし快楽主義者ではないとしても、人間なら誰しも快楽主義に誘惑される瞬間があるのです。
しかし、パウロはここに「死は勝利にのまれた」と凱歌をあげています。死に対する観念でもなく、死に対する屈服でもない。死の征服、死に対する勝利の宣言です。
コリント人への手紙第一の15章は復活論として有名です。キリスト者としてさすがに主イエスの復活は信じるものの、死者の復活についてはあやふやなコリント教会の人々に対し、使徒パウロが復活のイロハを順番に教えるところ。復活についてキリスト者が熟読すべき章とされてきました。
これまで主イエスの復活の事実と証人たち、復活の意味、復活の体の有様、復活の出来事の順番について語ってきたパウロ。その頂点が今日の個所となります。そして、この復活論が悲観主義か快楽主義か、二つに一つであった私たちの人生観、世界観を大きく変えることになるのです。
15:50~51「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。」
主イエスを信じる者は神の国を相続できる、とパウロは宣言しています。それでは、主イエスを信じる者、私たちが相続する神の国とは何でしょうか。
聖書によれば、神が創造した最初の世界はすべてのものが良い状態にありました。神と人間は親しく交わり、人間は互いに愛し合い、自然も美しく、豊かだったのです。しかし、人間の罪によって良い世界は傷つけられました。けれども、神はこの世界を見捨てず、神の御子が自ら十字架に死ぬという代価を払って人間の罪を贖い、救いの道を開きました。そして、主イエスはやがてこの世界に戻り、すべての被造物を新しくし、苦しみと死を終わらせ、この世界に平和、正義、喜びを回復する、と聖書は語るのです。
再臨の主イエスによってもたらされる新しい世界、平和と正義と喜びが回復した世界こそ、主イエスを信じる者が受け継ぐ神の国です。しかし、私たちが地上で持っている血肉の体は朽ちるもの、腐敗するものなので神の国を受け継ぐことができません。新しい世界には新しい体、死によって朽ちることのない体が必要なのです。私たちが相続する神の国は永遠の世界だからです。
この復活の体がどのようなものか。これまでパウロは説明してきました。ヒマワリの種が地上の体だとすれば、ヒマワリの花が復活の体。土にまかれた種が死んで花と変わるように、同じヒマワリでも種と花とではその美しさ、豊かさ、力強さがまったく異なること。それと同じく地上の体に比べて、復活の体が格段に美しく、豊かで、力強い命で満ちていること。様々な具体例を通して使徒は述べてきたのです。
けれども、この説明を聞いたコリント教会の中に、再臨の時に与えられる復活の体については分かったけれど、その日生きている者はどうなるのか。再臨の時生存している者は地上の体のまま神の国に入るのか。そんな疑問の声が上がったのでしょう。
それに対して使徒は答えます。「私たちは皆が眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」再臨の日地上に生きてある者はその体を新しい体に変えられるのです。朽ちる体が神の国での生活にふさわしい体へと造り変えられると言うのです。
その変化の有様を述べるパウロの言葉は、まるで実際に見ているかのように直接的でした。
15:52~53「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」
「講釈師見てきたような嘘を言い」という言葉があります。張り扇で台をたたき、テンポよく語る講釈師の話に面白いと感心する人はいても、それを本当だと思う人はいないでしょう。まして、その話に命を懸ける講釈師とかその話によって人生を変えられた人などいるわけもありません。
しかし、パウロも他の使徒たちも主イエスの復活と死者の復活を伝えることに文字通り命をかけた人々でした。どんなに苦しめられても、例え命を失うことになっても、彼らは復活を伝えることをやめなかったのです。その福音によって多くの人が主イエスに従い、人生を大きく変えられたのです。それは、死者の復活が嘘でもなければ、単なる人間の予測や願望でもなかったからです。死者の復活は世界を導く神のご計画であり、旧約聖書に預言されていたからです。
15:54「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」」
「死は勝利に呑み込まれた」という言葉はイザヤ書にあります。直接的にはイスラエルの民がアッシリア軍の攻撃から救出されることを語ったものですが、神に信頼する者が死の力から救出されることをも意味していると解釈されてきたのでしょう。この預言は私たちの心にも、来るべき神の国での喜びの生活を思わせてくれます。
イザヤ25:6~9「万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を吞み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた【主】。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
こうして遥かイザヤの昔から主イエスの再臨に向かう遠大な神のご計画を示した使徒は、次に旧約の預言ホセア書を引用しつつ、この世界に死をもたらしたのが人間の罪であること、その人間の罪を主イエスが取り除き、死に完全勝利されたことを指摘します。
15:55~57「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
勝利、勝利、勝利と三度にわたる勝利宣言、人間を苦しめてきた死に対する凱歌です。私たちの死に対する勝利は私たちの知識によるものではありません。私たちの努力や宗教的な行いによるものでもありません。十字架の死に至るまで神の御心に従うことによって、主イエスが父なる神から受けた勝利を私たちに与えられたのです。主イエスによって罪を贖われ、神に義と認められた私たちにとって、死は恐るべき神のさばきではなく、神の国への門出となったのです。
最後にキリスト者はこの地上の人生をいかに歩むべきか。パウロはこう勧めています。
15:58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
私たちは家庭において家族に仕えます。教会において教会の働きに仕えます。社会の一員として隣人に仕えます。あらゆるところで主イエスの福音を伝えてゆくのです。家庭でも教会でも職場でも社会でも、なすべき主のわざがあるのです。主イエスのために、主イエスの恵みによって労苦すべきわざが私たちにはあるのです。若くても年老いても、富む時も貧しい時も、賜物や状況は異なっても、励むべき主のわざが私たち一人ひとりにあるのです。今ここで私がなすべき主のわざは何か。そのことを考え続け、行い続けるのがキリスト者の歩みだとパウロは言うのです。
しかし、悲観主義に陥らず、快楽主義に走らず、主のわざをなし続けるのは決して容易なことではありません。困難と苦しみ多き地上の人生、誘惑と失望多きこの人生を、いかにして主のわざに励んで送ればよいのか。復活の希望こそ弱き私たちの助けであり、支えなのです。この言葉に励まされ、宗教改革の大事業を成したカルバンの言葉を聞きましょう。
「復活の望みがあるからこそ、私たちは弛むことなく主のわざに励むことが出来る。神の国での生活を思い、それによって神への畏れの中に引きとめられていないなら、かくも多くの躓きや苦しみのさ中にあって勇気を失うことなく、道に迷わずにすむ人が誰かあるだろうか。…事実死者の中から復活し、神の国を相続するという望みがとりさられてしまうなら、なおも主のわざに励もうという意欲は冷めるばかりか、全くうしなわれてしまうのである。」
この一年何をもって私は家庭で仕え、教会で仕え、社会で仕えるのか。誰に主イエスの福音を伝えるのか。この四日市キリスト教会がいつも主のわざに励む者として、この年度の歩みを進めてゆきたいと思うのです。