Ⅰ.イントロ
皆さんおはようございます。本日はエペソ書2章から説教をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
私自身が神の救いである「福音」に出会ったのは1999年であり、2000年4月にクリスチャンになりました。それ以前の私は、家がクリスチャンホームではなかった影響もあり、神の前における罪という問題について、ほとんど無自覚の人生を送っていました。とはいえ、人間の人生は毎日楽しいだけの快楽主義や物質主義だけでは成り立たないし、幼少期に父との関係が難しかった事もあり、人間の心に大きな闇があることは分かりましたし、日常の人間関係においても、望んでもいない形で人を傷つけてしまう事があったり、私たち人間の心の中に大きな問題(今思えばそれは罪の問題なのですが)がある事はひしひしと感じていました。エペソ2章にはその私たちの神様の前における罪の深刻さと、そこから一方的な恵みによって救い出される神のあわれみ・愛の大きさがよく描かれています。
Ⅱ.私たちの罪深い本性(1–3節)
エペソ2章1節〜3節
「1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
1つ質問をさせて頂きます。「今、私たちの心はきれいでしょうか?」 人が美しい景色や、素晴らしい芸術作品を見ると「心が洗われる」と言います。確かに本質的に良いもの、素晴らしい被造物である自然などに触れて私たちの心はいやされます。先日、伊勢志摩方面に行った際にその美しい自然に心が清々しくなりました。私たちの心は、一瞬良いものに触れて、心が穏やかに広くなる事もありますが、しかし、またすぐに現実の生活の中での問題やストレスによって、いらいらがやってきます。そして、悪意や、裁く思い、いらだち、党派心、時にはいたずらに自分を責める思いなどが私たちの心を支配してしまいます。まるで、泉のように悪い思いが湧いてきますから、私たちの心は少し洗った程度ではどうにもなりません。聖書では、このような私たちの状態を「罪の中に死んでいた」と表現しています。注目すべき点は“死んでいた”というところです。これは体が死んでしまっているのではなく、神様との関係に死んでいる、“霊的に死んでいる”ということです。“死んでいる”とはどういうことでしょう?
「何も感じない。」 死んでしまうと、健康状態が良いとか悪いとか何も感じなくなります。当然、罪に対する感覚もマヒします。そもそも神様が何故自分にとって必要であるのかすらも自覚できなくなります。
さらに、最も大きな問題は、「自分自身では治療不可能」ということです。病気や、弱っているという事であれば、自分の努力や治療次第でいくらか改善出来るかもしれません。ところが、“死んでいる”ということは、「神様にしか、いやすことが出来ない」という事なのです。聖書の中で、“死”とは存在の消滅ではなく、「離れること」という意味です。体の死、地上での死は体から魂が離れることを意味していて、ここで言っている「霊的死」とは、私たちの心が全く神様から離れてしまうことです。命の源、ほんとうに良いお方である神様から離れてしまい、私たちの心は罪の泥沼に沈んでいたというのです。そして、「罪」に基づく悪いものが私たちの心の中から、泉のように次々とあふれて来たのです。この状態はやがて私たちに、決定的な永遠の死をもたらすものです。それでは、一体いつから私たちの心は死んでしまい、罪の奴隷となってしまったのでしょうか?
それは、創世記3章にあるように、エデンにおいて最初の人であるアダムとエバがサタンにそそのかされて世界に罪が入ってしまってからです。彼ら罪人の子孫である私たちは生まれつき、この罪の性質が備わっていると言います。現在、世界中の人が罪を持ち、このサタンの影響下にあると言います。そして、その様な状態の人たちは、「自分の肉の欲の中に生き」「肉と心の望むままを行い」とあります。私たちの「心」は罪により完全に腐敗しているために、ガラテヤ5:20–21の悪徳リストにある様な、「敵意、争い、そねみ(ねたみとほぼ同じ意味)、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」などが次々と私たちの「心」から湧き出てくるのです。
今日の箇所によれば、私たちは「不従順の子ら」と表現され、ほんとうに良いお方である神様から離れてしまった私たちは、生まれながらに非常に自己中心的なものであると言えます。小さな子どもを育てていてもその事は良くわかります。お友達や兄弟姉妹と、お気に入りのおもちゃを分け合うこと、譲り合うこと、嫌な事をする相手に手を出さないで優しく伝えること
などは教えても自然にはなかなか出来ません(たまに上手く出来ますが、その時はしっかり褒める様にしています)。逆に、他人の物を取ってしまったり、相手を押しのけたり、叩いたり
そう言うことは教えなくてもすぐするようになりますし、ちょっと大きくなれば、親に反抗もしたり、うそやごまかしもします。やはり“小さくても立派な罪人だね”と妻と私は冗談交じりに話しています。子供は純粋だと言いますが、だからこそ若いうちに信仰を伝えることは何よりも大切だと思っています。
罪には罰が伴います。「私たちもみな・・・生まれながら神の怒りを受けるべき子ら」(「〜の子」は「~に属する、~の性質を受け継ぐ者」という意味があります)であったと言われています。神様は愛のお方であると同時に、完全に聖く正しい方であり正しく裁かれるお方です。「罪」に対しては「有罪」とせざるを得ないのです。裁判官やスポーツの審判が、適正に裁かなければ、社会やスポーツの試合が成り立たないのと同じです。まことに神様は赦しに富み、恵み深くあわれみ深いお方ですが罪について見て見ぬ振りをして、あいまいにする事は出来ません。神様の怒りとは、人間の憤りを含む個人的感情とは異なり、純粋に罪を憎む「罪に対する怒り」です。そして、この怒りには非常に厳しい面があり、ローマ6:23に「罪の報酬は死です」とあります。罪の結果として私たちが刈り取る報酬は「死」なのです。そして私たち人間に罪の無い完全に正しい人は“1人もいない”と聖書は伝えています(ローマ3:11)。
(まとめ) 私たちの根本的な問題は“神様の前での死(霊的死)”であり、それは全人類に共通する深刻な問題です。私たちの状態は“罪に死んでいたもの(自力では救済不可能)”であり、本来ならば、生まれながらに罪の報いとして神の怒りを受けるべき者であったというのです。
Ⅲ.ただ、恵みによる救い(4–10節)
エペソ2章4節〜10節
「4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。
8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」
① 救われた恵みを土台として生きる
「しかし」と、4節から文章の流れが大きく転換します。主語が「あなたがた」「私たち」から「あわれみ豊かな神」と変わっており、救いはいつも神の側からの、神を主語とした働きです。Ⅰヨハネ4:10に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・」とある通りです。まず神が、罪の中に死んでいた私たちに「変革」と「救い」を与えて下さいました。この事は、私たちの人生に決定的な影響をもたらします。神様の側の善意、あわれみがなければ、私たちはいまだに“罪の中に死んだ者”として、日々罪の泥沼の中に生きることしか出来ずにいたのです。しかし、今、私たちはキリスト・イエスと共に、“ほんとうのいのち”に生きることが出来る様になったのです。私たちの人生は恵みによって180°転換し、神を愛し、隣人たちを愛する人生へと変えられました。ですから、この「神の恵み」を土台にして生きていく事がとても大切です。たとえ誰かが問題の行動を起こしていたとしても、安易に裁いたり攻撃したりすることをせず、忍耐深く、その人の悔い改めのために祈るのは、私たち自身もまた、神の目から見れば、ただ神の愛と恵みによって、絶望的なところから救われた者だからです。
② すでに完了している救いと、聖霊による聖化
5節の“救われた”という言葉は、原語のギリシャ語では動詞として完了形が用いられ、「すでに救われて今その状態にある」という意味です。救いとは、私たちの救いが完成して将来天国に行く事でもありますが(その意味では完成途上です)、同時に、イエス様の十字架の贖いは完全なものであり、“今もうすでに神様とつながり新しいいのちを得ている”という事でもあります。私たちが、すでに救われて新しいいのちを得ている
という聖書の宣言は、私たちにとり大きな励ましです。私たちは、神を信じクリスチャンとなり教会生活を始めた後でさえ、時に、罪の泥沼に苦しみ、自分の罪深さにがっかりしたり、信仰が後退しているのではと感じてしまうことさえあると聞きます。私自身も罪の残滓(ざんし;残りかす)に悩まされる時は度々あります。しかし、神があなたを救われた働きはもう完了しているというのです。恵みによる救いとは、私たちの力ではなく、神様の力で行われ、完成へと至るものだからです(ウェストミンスター信仰告白 第18-4「恵みと救いの確信について」参照)。とはいえ、私たちには救われた後もずっと「中身の変化」が必要です。私たちの立場は完全に変化して死からいのちに移されました。一方で中身においては、毎日、“主イエスに似た者”へと変えられていく過程があります。そのプロセスは私たちの地上の人生が終わるまで続きます。「聖化」の歩みです。その聖化のプロセスを歩むのは私たち自身ですが、その上で大切なのはやはり「恵み」です。私たちの心を内側から少しづつ変えてくださるのは、ただ聖霊による、つまり神の力によるからです。ですから、今の状態がたとえどの様であったとしても、ただ働いてくださる聖霊の力にすがり期待をしていきましょう。恵みの中で神に近づいて行くプロセスを、今も私たちは生きているのです。
③ 恵みのゆえに、信仰によって
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われた」とあります。神の恵みによって、主イエスを信じる信仰を通して救われたというのです。「信仰によって」とは「信仰を通して」という意味です(ギリシャ語前置詞;ディア)。神様の恵みを大きな水源だとすると、信仰は水道管の様なものです。宗教的儀式でも善い行いでもなく、ただ救い主イエス・キリストへの信仰という道を通して私たちは救われます。とはいえ、この信じる心もまた、神様が私たちに与えてくださるものです。
そして、「恵みによる救い」ということが強調され、救いは神様からの賜物=プレゼントであるということが言われます。「恵み」とは、ふさわしく無いものに与えられる善意です。私たちの何か善い行いに対する報酬のようなものではありません。確かに私たちの日常生活では、労働とそれに伴う報酬の原則を知る事は大切です。大人になれば多くの場合、労働と報酬で私たちの社会生活の基礎が成り立っているからです。しかし、そんな私たちも誕生日やクリスマスのプレゼントは報酬以上に本当に嬉しいものです。プレゼントには自分の存在価値を無条件で肯定する意味があるからです。そして、何よりも神様からの最高の賜物は「救い」なのです。これだけは、私たちはどんなに努力しても、人間の力では得ることが出来ませんでした。「救い」は決して私たち自身では“稼ぐ”ことの出来ないものです。9節で、「行いによるのではなく、誰も誇ることが出来ない」と念押しされています。
(適用)まことにふさわしく無いものに与えられた、神様からの無限の賜物。そこに私たちの信仰の原動力、感謝の原動力、喜びの原動力があります。たとえ私たちが相応しい者であったとしてすら、神が与える救いとは絶大なものです。私たちの歩みを死から命に移すものであり、永遠の命を保証するものです。しかし、それが、到底ふさわしく無い、罪深いこの私に与えられたものだったとすればどうでしょうか?
アメージング・グレイス「驚くばかりの」という賛美歌がありますが、神様の恵みとは私たちにとってほんとうに信じがたい程に豊かな、驚くべきものなのです。
神は本来、それをする必要が無かったにもかかわらず、ただ愛とあわれみのゆえに、本当に豊かな愛、一人子を与えるほどの愛を私たちに示してくださいました。そして、10節にある「良い行いに歩む」人生を私たちに与えて下さいました。今一度私たちは、この神の計り知れない大きな恵みに、ただただひざまずき、この神の恵みを証しするものとして、今週も神様と共に与えられた場所で、キリストに似た者へと造り変えられつつ歩んでいきましょう。
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