2020年8月9日日曜日

「神以上に大切なもの、もっていますか」創世記22:1~14

 私たち人間は皆何かのために生きています。それに向かって一生懸命に生きる目標、それに希望を置いて生きるビジョンを誰もが持っているか、持ちたいと願っているのです。その何かは人によって異ります。異性から愛されることを願いとして生きる人がいます。経済的安定を求めて懸命に働く人がいます。大学合格や仕事の成功を求めて人一倍努力を重ねる人もいます。社会的に認められ、立派な肩書を手に入れるため、日々精進する人もいるのです。

異性から愛されたいと思うことも、経済的安定を求めることも、大学合格や仕事の成功を願うことも、社会的に認められたいと欲することも、何ら否定されるべきことではありません。それ自体は自然なことであり、良いことなのです。

しかし、聖書はそれらが私たちにとって偶像にならぬよう警告しています。人間には神ではないものに神の様に仕える性質があると戒めているのです。

 

ローマ1:25「彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。」

 

私たちキリスト者は仏像を拝んだり、神棚に向かって手を合わせることをしません。死者を神や仏として祭ることもしません。ただ一人世界の造り主の神を礼拝するのです。しかし、その様な目に見える偶像を拝まずとも、私たちの心の中には神の様に大切にしているもの、即ち偶像が存在すると聖書は警告しているのです。

その一例として今朝取り上げるのは旧約聖書に登場するイスラエル民族の先祖、アブラハムの人生に起こった試練です。このアブラハムと言う人物、ユダヤ人の間で信仰の父として知られ、尊敬されていました。その生涯はまさに信仰の父と呼ばれるにふさわしいものだったのです。

聖書によると、75歳の時アブラハムは神に呼ばれ、故郷を旅立っています。

 

12:1~2「【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」

 

神がアブラハム(この時はアブラムと呼ばれていた)を大いなる国民とし、祝福し、その名を大いなるものとする。アブラハムは地上のすべての民族の祝福となる。神がアブラハムに与えた約束は素晴らしいものでした。しかし、神に従うため、彼は故郷を離れなければなりませんでした。慣れ親しんだ土地を離れ、安心して付き合える家族、友人と別れ、安定した生活をあきらめ、神が導く地へとアブラハムは旅立ったのです。

約束の地カナンに定着してからも、苦労は絶えませんでした。飢饉に襲われ、夫婦は危機に陥りました。甥のロトとの別れがあり、周辺部族との戦いもありました。しかし、最大の悩みは後継ぎの問題でした。「あなたを大いなる国民とする」と言われたにもかかわらず、アブラハムが求めても求めても、神が後継ぎを与えることはありませんでした。やがてアブラハムは年老い、妻のサラも不妊の体となる。子どもの誕生を願うことは、常識的に不可能な状況へと彼ら夫婦は追い込まれたのです。

その様に後継ぎの問題で悩み、葛藤し続けたこの夫婦に待望の男子が与えられたのは、アブラハム100歳の時でした。そしてこの期間忍耐し、待ち続け、多くを犠牲にしてきたアブラハムの信仰はよく練られたのです。使徒パウロはその信仰を称賛し、こう語ります。

 

ローマ4:18~22「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。」

 

この間後継ぎ誕生を待ちきれず、アブラハムは何度か間違った行動に出たことがあります。後継ぎをあきらめかけたこともありました。しかし、彼の心から神に対する信頼が消え去ることはなかったと聖書は言うのです。そして、今朝私たちが見るのは喜びの後継ぎ誕生から数年後のこととなります。

 

22:1~2「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」」

 

聖書には「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」とあります。何故この時アブラハムに試練が与えられたのでしょうか。

これはイサクと名付けられた男の子が12歳頃の出来事とも言われます。イサク誕生以来、アブラハムとサラはイサクを真ん中にして、親子三人平穏無事な歳月を積み重ねてきました。アブラハムは待望の我が子に愛情を注ぎ、その健やかな成長こそ生き甲斐だったのです。

また、当時は現代とは違い、人々は個人的繁栄や成功よりも、自分が属する家族の繁栄や成功に価値を置いていました。家族の希望は後継ぎに託され、家系が絶えないようにと、殆どの財産を相続するのは後継の長男と決まっていました。ですからイサクの成長はアブラハム家の存続と繁栄を保証するものだったのです。後継ぎイサクの存在は愛情の対象というにとどまらず、アブラハムにとって人生の拠り所でもあったのです。

しかし、神はそんなアブラハムの中に、神以上に我が子を愛し、大切にする思いを見ていたのです。神だけにしか与えることのできない人生の意味や幸福を我が子の成長の中に感じているアブラハムの問題を見ておられたのです。このままでは、アブラハムにとってイサクが神以上に大切なもの、即ち偶像と化す危険があると考え、神はイサクをささげるよう命じたのです。

けれど、この試練は尋常なものではありませんでした。神はモリヤの地にある山の上でイサクを全焼のいけにえとしてささげよと命じたのです。アブラハムにとっては「まさか」としか思えない命令だったでしょう。イサクは百歳にして与えられた嫡子。アブラハムに取って最愛の宝。そもそも神ご自身が格別に約束して賜った子どもでした。それを山の上で全焼のいけにえとせよとは、一体なぜ神がそんなことを命じるのか。アブラハムは思い悩んだに違いありません。

けれども、さすが信仰の父。翌朝アブラハムは神の示す山へと出かけて行ったのです。

 

22:3~6「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。」

 

アブラハムは全焼のささげものの意味については理解していました。旧約聖書には、後継ぎである長男(初子)についての命令が記されています。当時初子は家族を代表する存在でした。イスラエルの民は家族全員の罪を贖うために、代表である初子を犠牲として神にささげるよう命じられていたのです。勿論、直接初子の命が犠牲となったのではなく、贖い金か犠牲の動物をささげることで家族の罪は贖われ、人々は神に受け入れられたのです。

こうした命令を背景とすると、神がアブラハム家の罪を贖う者としてイサクをささげるよう命じ、アブラハムが正しく応答したことが分かります。ただそれにしても、疑問は残ります。神がいけにえとしてささげるよう命じたイサクが、どのようにして後継ぎとして生き残ることが出来るのか。神の命令と神の約束はどう調和するのか。神はこれについて沈黙しています。何の説明もしてはいないのです。

しかし、たとえそうであってもアブラハムは神に信頼しました。どの様にしてかは分からないけれど、神にささげたイサクを神が助けてくださり、イサクと共に家に帰ることが出来ると信じて神に従ったのです。6節「アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。」

けれども、少年であるイサクには父の思いが理解できませんでした。イサクは尋ねます。

 

22:7~9「イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。」

 

レンブラントの名画「アブラハムの犠牲」には、何も知らぬうちに父に縛られ、薪の上に乗せられたイサクがのけぞり、白い喉と腹を露にする生々しい姿と、その喉目がけて刀を振り下ろすアブラハムの姿が描かれています。そして、聖書はアブラハムが手に握る刀が一閃したその瞬間、御使いが呼びかけたと言うのです。

 

22:10~14「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。」

 

この出来事は、アブラハムが神を第一に愛するための試練でした。神は彼に告げています。「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」神を恐れるとは神を怖がることではありません。この世の何物よりも神を愛することです。神が大切な後継ぎを与えようと、大切な後継ぎを取り去ろうと、神に信頼し、神に従うことなのです。

果たして、私たちは神を畏れているでしょうか。この世の何物よりも神を愛しているでしょうか。神が良いものを与えてくれても、それを取り去っても、神に信頼し、神に従っているでしょうか。神は私たちの信仰を練り、私たちが真に神を畏れる者となるために、試練を与えるのです。

アブラハムがイサクと言う偶像をもっていたように、私たちも心に偶像となりうるものを持っているのです。ある人にとっては我が子が、ある人にとっては経済的な安定が、ある人にとっては仕事の成功が、ある人にとっては誰かに愛されることが、ある人にとっては社会で認められる存在になることが偶像なのです。

神は私たちが子供を愛することも、経済的な安定を求めて働くことも禁じてはいません。神は私たちが仕事の成功を求めることも、誰かに愛されたいと願うことも、社会で認められる存在になるため努力を重ねることも禁じてはいません。それら自体は良いことなのです。

神が禁じているのは私たちが神以上に子どもを愛し、神を抜きにして経済的安定を求めることです。私たちが神の栄光を表すことより仕事の成功を願い、神に愛される以上に誰かに愛されるのを求めることです。神に認められる以上に社会で認められる存在になるのを願い、それに捕らわれて生きることなのです。神は「あなたが大切に握りしめているもの、偶像を捨てよ、それをわたしに差し出せ」と命じているのです。

でも、どうしたら私たちは私たちの偶像を捨てることができるのでしょうか。アブラハムのために神が備えていた雄羊のささげものに注目したいと思うのです。結局アブラハムの家族の罪を贖ったのはイサクではありませんでした。神は彼らの罪を贖うために雄羊の犠牲を備えていたのです。この雄羊の犠牲はイエス・キリストの救いを示す予表です。神は二千年前モリヤの山、エルサレムの丘にイエスを送り、愛するひとり子のいのちを十字架につけ、私たちの罪を贖い、ご自身の愛を示されたのです。

この主イエスの十字架に示された神の愛が私たちを偶像から自由にするのです。神は富んでいても貧しくても、私たちを愛しています。この世で成功しても失敗しても、神の私たちに対する愛は変わらないのです。社会に認められなくても誰かに愛されなくても、神は私たちを大切な存在と認め、受け入れ、愛してくださるのです。神の愛を受け取る時、私たちは私たちを虜にしている偶像を捨て去ることができるのです。この神の愛に安らぐ時、私たちは人生に起こるどんな試練にも立ち向かうことが出来るのです。

私たちの生涯は偶像との戦いです。悔い改めの連続です。私たちは自らの心にある偶像を捨て、神を畏れる者として歩んでゆきたいと思うのです。

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