2020年8月16日日曜日

一書説教(60)「ペテロの手紙第一~永遠の栄光の中に~」Ⅰペテロ5:10

 

 聖書の中には出てこなく、聖書が記されて後のクリスチャンがつけたあだ名ですが、十二弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれます。ガリラヤ湖の漁師、あまりの気性の粗さにイエス様から「雷の子」(ボアネルゲ)とあだ名が付けられた人物。福音書や使徒の働きを読む限り、特別に愛の行動をとったことが記されているわけでもない。しかし、聖書を読むクリスチャンたちは、ヨハネのことを「愛の使徒」と呼びます。何故なのか。それは、ヨハネが記した手紙が愛について多く記しているからです。著作によって「愛の使徒」とあだ名が付けられました。同様に、パウロはその著作によって「信仰の使徒」と呼ばれ、ペテロはその著作によって「希望の使徒」と呼ばれます。つまりペテロの手紙は希望について書かれている書ということです。

 私たちが普段「希望」という言葉を使う時、「願い」という意味で使います。そうなるか分からないけど、実現したら嬉しいと思うこと。希望が叶う、希望通りになるというのは、願いが実現したということです。しかし聖書にある希望は、これから必ず起こることを知り生きる力を得ることです。今はそうではないけれども、これから必ず起こることを知っているから、それに向かって喜んで生きることが出来る。これが、聖書が教える希望を持って生きるということです。

 ペテロの手紙は希望の書。それでは、ペテロはどのようなことが必ず実現すると言うのでしょうか。何を知っていれば、私たちは生きる力を得ることが出来るのでしょうか。私たちはどのような希望をもって生きるように教えられているのか。皆で確認していきたいと思います。

六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十回目、新約篇の二十一回目、ペテロの手紙第一となります。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 これまで一書説教で確認してきましたように、新約聖書の手紙と言っても色々な種類があります。一つの教会に宛てた手紙、複数の教会で回覧されることを想定した手紙、個人へ宛てた手紙。感謝、励ましを記したものから、叱責、注意が中心の手紙、神学書、説教集のような手紙もありました。今日注目するペテロの手紙はどのようなものなのか。次のように始まります。

 Ⅰペテロ1章1節~2節

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 

 ペテロから、様々な地域にいるキリスト者へ。個人宛ではない、一つの教会宛てでもない。幅広く、多くの人を対象とした手紙。そのため、一つの地域に固有なこと扱うのではなく、一般的、普遍的な内容が期待される始まり方です。しかし、わざわざ地域を挙げていますので、ペテロ自身は送り先の相手を具体的に考えながら記したものでしょう。

 

 今回一書説教の準備にあたり、私はこの冒頭の挨拶に手紙の中心的なテーマが込められていると受け取りました。

ペテロはここで、手紙の受け取り手のことを「選ばれた人たち」「御霊による聖別を受ける者たち」「キリストの血の注ぎかけを受ける者たち」と呼びます。キリストを信じるあなたは、神様から選ばれ、特別な恵みを受け取っている者であると確認します。

「神様から選ばれ、特別な恵みを受け取る。」それは、さぞや良い人生、安楽、安心、人から羨ましがられるような歩みとなるのではないかと思うところ。しかしペテロは、その選ばれた人たちは、散らされ、寄留している者たちだとも言います。神様から選ばれ、特別な恵みを受け取るというのは、必ずしも地上での歩みが思い通りになるということではない。むしろ散らされ、寄留する者として生きる、困難、苦難があると確認します。

何故、キリストを信じる者、神に選ばれ特別な恵みを受ける者が、困難、苦難を味わうのか。そのことを通して、「キリストに従う者となる」から。困難、苦難を味わうことで、キリスト者はキリストに似る者へと変えられていく。いや、困難、苦難を味わうこと自体、キリストに従う歩みなのだと確認するのです。

 

 手紙の冒頭、挨拶に込められた三つのこと。キリストを信じる者は「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者であること」、「その歩みには苦しみがあること」、「苦しみを通して、造り変えられる者であること」。この三つのことが、繰り返し語られるのがペテロの第一の手紙となります。今日はこの三つの視点に沿って、手紙を概観していきます。

 

 一つ目の視点、キリストを信じる者は、「神様から選ばれた者、特別な恵みが与えられた者」であるというテーマは、様々な言葉で言い換えられ、神様から選ばれるとはどういうことか、特別な恵みとはどのようなものか、語られます。

 「神様から選ばれた者、特別な恵みが与えられた者」とは「私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて下さる」(1章3節)こと。「朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにして下さる」(1章4節)こと。「イエスを直接見てはいないけれども信じ、愛し、喜び者とされた」(1章8節)こと。「たましいの救いを得た」(1章9節)こと。「先祖伝来のむなしい生き方から救い出された」(1章18節)こと。「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民となった」(2章9節)こと。「あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受ける者となった」(2章10節)こと。などなど、神様から選ばれ、特別な恵みを頂くということがどれ程凄いことなのか、手を変え品を変え、これでもかこれでもかと語るペテロ。私たちも、この手紙を通して、神様からどれ程大きな恵みを頂いているのか再確認したいと思います。

 

 このように神の選びと特別な恵みについて、多く語るペテロですが、選びの目的は何なのか。特別な恵みを受ける者は結局のところどうなるのか。それは次の箇所にまとめられていると思います。

 Ⅰペテロ2章21節~25節

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

 

 自分のなりたいような人になれるとしたら、自分の生きたいように生きることが出来るとしたら。皆様は、どのような人になり、どのような人生を送りたいと思うでしょうか。ここに記されるイエス様の姿のようになりたいと思うでしょうか。自分をののしる相手がいた場合、徹底的に反撃する道と、ののしり返さない道と、どちらでも選べるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。自分の願い通りに出来る道と、神様の願う道に進むことと、どちらでも選べるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。

 キリストを模範とする生き方は、たとえ横暴な王や主人や夫に対する時でも、「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福するように」(2章13節~3章16節)と言います。ペテロは、キリストを信じる者は神に選ばれた者、特別な恵みを受ける者と言いましたが、その特別な恵みの中心にあるのは、このキリストの姿に私たちが変えられていくことなのです。そうだとしたら、この神様の選び、この特別な恵みを、私は喜ぶことが出来るのか。心さぐられるところです。

 

 二つ目の視点、キリストを信じる者の歩みには苦しみがあること。このテーマもペテロは繰り返し語ります。

 Ⅰペテロ2章11節

愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 

肉の欲。考えてみれば人生は欲望だらけ。欲望の嵐。私たちの人生は、絶えず欲望がつきまとうもの。少年は食欲。青年は色欲。壮年は物欲。老年は利欲。欲望の塊である私たちは、次々に罪に引きずり込まれる。毎日、欲望に引っ張られ、罪に引きずり込まれていると言っても言いすぎではないでしょう。神様のために、神の栄光のためにと願い、生きているはずが、いつのまにか私の欲望をいかに叶えるのかにやっきになる。

 ここにキリスト者ならではの苦しみがあります。信仰がなければ何も考えない、経験しない、自分の欲望との戦いの苦しみ。神の民らしく生きたいと願う思いと、肉の欲に従いたいと願う葛藤の苦しみ。

 

 さらに、自分の欲望との戦いは、周りの人からの迫害にもつながると言います。

 Ⅰペテロ4章3節~5節

あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。

 

 信仰を持ち、正しく生きることで中傷、嘲笑されることがある。また周りの人からの迫害を恐れて、この世と調子を合わせることがある。ここに信仰者ならではの葛藤や苦しみがあります。

 神様から選ばれ、特別な恵みを頂く者。キリストに似る者となるように選ばれた者。それにも関わらず、全くそうは生きていない私、生きることが出来ない私。しかし、そのような自分自身、そのような状況を苦しむことこそ信仰者の歩みであるとペテロは言うのです。何の苦しみもなく、何の葛藤もなく、キリストに似る者となるのではない。キリストに似る者へ変えられていくのには、様々な苦難があると確認するのです。

 

 三つ目の視点は、苦しみを通して私たちは造り変えられる者であること。このこともまた、ペテロは繰り返し語ります。

 Ⅰペテロ4章12節~13節

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

 

 神様は様々な方法で恵みを下さり、様々な方法で私たちをキリストに似る者へと変えて下さいます。しかしペテロがこの書で特に強調するのは「試練」です。神様は試練を通して、私たちから不純なものを取り除いて下さる、精錬して下さると言います。(Ⅰペテロ1章7節) 

神様が世界を支配し、私を愛している。それにもかかわらず、何故このような苦難、困難が起こるのかと困惑することがあります。こんな試練があるとは、神様は私を愛していないのではないかと戸惑うことがあります。しかし、戸惑う必要はないというのが、ペテロの励ましの言葉です。

聖書の他の箇所にある、「主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。」(ヘブル12章5節~6節)とか、「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(Ⅱコリント4章17節)という言葉が思い出されるところ。

 

 聖書の中には試練や挫折を通して練られた人物が多くいます。何よりペテロが繰り返し繰り返し、試練に合い、挫折を経験した人でした。

キリストが十字架にかかることを告げられた時、ペテロはイエス様に対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」といさめ、イエス様から「下がれ、サタン。」と言われました。(マタイ16章)死ぬことになっても裏切らないと言ったその夜、イエス様を三回知らないと言いました。(マタイ26章)

試練、挫折を通して、その都度、自分の中にある高慢な思い、自分の力に頼る思いを思い知らされ、その自分を愛し、造り変えようとする神様の恵み、イエス様の愛を知る経験をしたペテロ。そのペテロの言葉として、苦しみを通して私たちは造り変えられると教えられることに重みを感じます。

 

 以上、三つの視点でペテロの手紙第一を概観しました。キリストを信じる者は「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者であること」、「その歩みには苦しみがあること」、「苦しみを通して、造り変えられる者であること」。

この三つの視点を、ペテロは手紙の最後で次のようにまとめています。

 Ⅰペテロ5章10節

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 

 「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者である」というのは、「永遠の栄光の中に招き入れられたこと。」言葉で表現することが難しい、考えられない程の大きな恵みを頂いているということ。キリスト者の歩みには苦しみがある。しかし、それはずっと続く苦しみでも耐えられない苦しみでもなく、「しばらく」の苦しみであること。「造り変えられる」とは、「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者」として下さる。完全に、キリストに似る者となる日が来るということ。

 特に大事なのは、「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」にある、「してくださいます」という部分です。キリストを信じる私たちは、キリストに似る者に選ばれた者。しかし、私たちはキリストに似る者になれない。なる力がない。努力する力もない。その私たちを、キリストに似る者へと変えるのは、神様がして下さること。神様が責任をもって為して下さる。これが、ペテロが掲げる希望です。そうなったら良いというのではなく、必ずそうなるというもの。

 是非とも、ご自身でこの手紙を読んで頂き、自分にとってこの内容が希望であるか。味わい、確認して頂きたいと思います。

 

 神様がするとなれば、それはもう必ずなります。必ずなる、絶対なります。問題となるのは、私たちがそれをどのように受け止めるかです。もし私たちが、キリストに似ることを避けようとするならば、それは本当に苦しい歩みとなります。

 神様がして下さる私に対する取り組みを、私自身が喜ぶ。神様が日々私を造り変えていて下さり、やがての日には完全にキリストに似る者として下さることを喜ぶ。ペテロが示した希望を、私の希望とする歩みを皆で送りたいと思います。

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