2021年3月28日日曜日

レント④

 今朝はイエス様の復活をお祝いするイースターの一週間前、受難週の礼拝です。金曜日の夜には聖餐礼拝をおこないます。皆様と一緒にイエス様の十字架の苦しみを思い巡らし、聖餐を通して、十字架の恵みを味わうひと時がもてたらと願っています。この様な状況ですので、無理をなさる必要は全くありませんが、可能な方はぜひご参加ください。聖餐礼拝では、大竹海二先生が説教をしてくださいます。

また、来週のイースターの礼拝では、二人の姉妹が受洗、森家の常喜さんが幼児洗礼、伊藤節郎兄が転会されることになります。私たちとともに、イエス様に従う人生を歩み始める方々、歩んでこられた方を心から歓迎し、祝福する時になればと願っています。

さて、今年の受難節の礼拝では、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉を取り上げ、説教してきました。今朝取り上げるのは十字架上の第四の言葉です。

 

15:33,34「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 

イエス様が十字架につけられたのは紀元30年の春、ユダヤ人が最も大切にしていたお祭り、過越しの祭りが始まる前の金曜日午前9時のことでした。3時間の苦しみの後、12時に突然全地が暗くなり午後3時まで続きました。その時暗闇に包まれた十字架から、イエス様が大声で叫ぶ声が聞こえて来たんです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

実はこの言葉、人々に戸惑いをもたらしてきた言葉でもあります。キリスト教会の歴史には殉教したクリスチャンが沢山います。しかし、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでいった殉教者は記録にありません。クリスチャンがこのように叫んで、死ぬことがあるでしょうか。もし、あったとして、人はそれを記録に残し語り伝えるでしょうか。ある人々が言うように、イエス様は弱音を吐き、悲鳴を挙げて人生を終えたということになるのでしょうか。

ギリシャの哲学者ソクラテスは、イエス様と同じように不当な裁判を受けて死刑にされました。しかし、少しも慌てふためくことなく、「悪法と言えども国法なり。」と言って、自ら毒杯を仰いで死んでゆきました。このソクラテスの見事な最後に比べて、イエス様の最後は何と未練がましいことか。そう言ってキリスト教を批判する人もいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。

イエス様が地上に来られた理由、それは父なる神が創造されたこの世界が、人の罪のゆえに堕落した状態に落ち込んでいたからです。本来礼拝されるべき神を礼拝する者は僅かしかいない。本来愛し合うべき人間が憎み合う。本来平和であるべき世界から争いが絶えない。本来皆が豊かな生活を送れるはずなのに、貧富の差は広がるばかり。

しかし、罪の中に陥ったこの世界を、父なる神は決してあきらめたりはしなかったんです。その神の思いを知っておられるイエス様は、ご自分が神の御子であるという栄光を捨ててでも、人となることを選ばれたんです。人々がみな神のことばに従う世界になるように、私たちが罪から救い出されるように、一生懸命福音を伝えて歩かれました。泊まる家がなく、石を枕に眠ることがあっても、疲れ果てて船底で眠りながらも、飢え渇くことがあっても、それでも病人を癒し、福音を語り、人々を罪から救い出すために、イエス様は仕えて来られたんです。

しかし、その労苦のすべてをイエス様は否定されました。ユダヤの指導者も、宗教家も、民衆も、ローマの総督も兵士たちも、十字架につけられていた犯罪者も、みながイエス様を嘲ったんです。「お前が本当に救い主なら、十字架から降りてみろ。自分を救え。俺たちのことを助けてみろ。」イエス様はご自分が愛した者たちによって、ご自分が仕えた者たちによって裏切られ、馬鹿にされ、罵られたんです。こんなに悔しいことがあるでしょうか。

しかし、そうなることをご存じで、イエス様は地上に来てくださったんです。人々から捨てられ、十字架につけられる道が父なる神のみ心であると知り、その道を進みゆく覚悟を持たれていたんです。それは、弟子たちが「あなたは神の子、キリスト」と告白した時のことでした。

 

マルコ8:31「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」

 

けれども、人々から捨てられ、十字架につけられる苦しみを受けとめ、覚悟を決められたイエス様にも、受け入れがたい神のみこころがありました。それは父なる神に捨てられること、罪人として神の裁きを受けることでした。この世界が創造される前から、父なる神と子なる神イエス様は愛の交わりの中にありました。神のみこころに従って、イエス様はこの世界に下り、人々を愛し、仕え、十字架への道を選ばれたんです。

しかし、その十字架において、人々に否定され、嘲られる、その苦しみには耐えられるとしても、愛する天の父から捨てられる苦しみには耐えがたい。それが最後の最後までイエス様の悩みでした。天の父のみこころには従いたい、しかし、天の父から裁かれることは耐え難い。悩みに悩むイエス様は十字架前夜、ゲッセマネの園で祈りを捧げています。

 

14:3236「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

「この杯」と呼ばれた苦しみ、天の父から捨てられ、裁かれるという苦しみが、どれ程イエス様を悩ませていたことかが伝わってくる場面です。いつも天の父に従うことを喜びとして来られたイエス様が、十字架を前に「この杯だけは取り去ってください」と祈られた。これほど悲しみもだえるその姿に、神に捨てられ、裁かれることの底知れない恐ろしさを、私たちは覚えます。

そして、翌日の昼12時全地が暗闇に包まれました。聖書において、暗闇は神の裁きのシンボルです。イエス様があれ程恐れ、悲しんでおられた神の裁きが、この時イエス様に下りました。イエス様は捨てられたのです。

私がクリスチャンになって三年目のクリスマス。キャンドルライトサービスで一人の兄弟が証しをしてくれました。立派な社会的な肩書をお持ちでありながら、いつも教会の玄関で来会者に気を遣い、そっとスリッパを差し出す奉仕を黙々とささげる兄弟でした。そんな兄弟がですよ、「イエス様が十字架でこの叫びを叫んでくださらなければ、僕の罪は赦されなかった。」と告白したんです。残念ながらその時の私にはよくその意味が理解できませんでしたが、今なら分かる気がします。

本当なら、罪人である私たちが裁かれて、神様に捨てられなければなりませんでした。それが、罪のない神の御子が人となられ、私たちの罪をすべて背負って、私たちに変わって裁きを受けられました。世界で最大の罪人として神様に捨てられたんです。もし、イエス様があの叫びを叫んでくださらなければ、私たちの罪は赦されることはなかったということです。

イエス様が罪人の一人として苦しまれたところ、そこは底なしの暗闇です。一筋の光さえさすことのない闇の世界です。しかし、その様な暗闇の世界から、イエス様はご自分を見捨てた神に向かって、「わが神、わが神」と叫ばれました。これ以上はないという絶望的な状況の中にありながら、それでもなお神様を「私の神」と呼び、神様への信頼を捨てることはなかったのです。

イエス様の地上の生涯は神様に従う歩みでした。神様のみこころから外れることのない、完全な歩みでした。その完全な従順は十字架の死の瞬間、神様に見捨てられるという状況においても変わることはありませんでした。つまり、イエス様だけが神様から見てただ一人の義人だったんです。

ただ一人の義人であり、神様の祝福を受けるにふさわしいイエス様が、何故自ら神様の裁きを受けられたのでしょうか。聖書はこう教えています。

 

コリント第二5:21「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」

 

罪のないイエス様が、私たちの代わりに、罪人として神様に捨てられるという苦しみを忍び通してくださいました。神様は私たちに下すべき裁きをイエス様に下し、イエス様にこそふさわしい義の祝福を私たちに与えてくださいました。だからこそ、私たちは罪あるままで神様に義と認められ、そんな資格は全くないのに、神様の家族に迎えられたのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」今朝、私たちはこの主の言葉を静かに思い巡らしたいと思います。今朝だけでなく、生涯をかけて思いめぐらすべき言葉でしょう。多くの人が言うように、この言葉に込められたイエス様の思いを理解しつくすことは、人間には不可能とも思えます。

しかし、そうであったとしても、この言葉は私たちの罪の深さを示しています。私たちが自分の罪を軽く見ることを戒める言葉です。たとえ、私たち人間の目にはどんなに小さな罪に思えても、イエス様の血が流されねば、罪の赦しはありません。同時に、この言葉は天の父の愛、イエス様の愛を教えてくれます。愛する御子を見捨てた天の父の苦しみ、愛する父に捨てられたイエス様の苦しみ。人間には測り知ることのできない苦しみを伴う愛が、今朝礼拝に集う私たちに注がれていることを、確信したいと思います。

最後に確認したいのは、今朝このイエス様の叫びを聞いた私たちの生き方です。十字架への道を歩む決意を語った時、イエス様は弟子たちにこう教えています。

 

マルコ8:34,35「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 

イエス様の歩まれた道、それは自分を捨てる道です。イエス様は神の御子としての栄誉を捨て、罪人の一人となりました。完全に神様に従った者が受けるべき祝福を捨て、それを私たちに与えてくださいました。イエス様は私たちにも「自分を捨ててみたらどうか」と勧めています。

私たちの人生を苦しめているものは何でしょうか。それは自分を巡る問題です。私たちはどれ程自分にこだわっているでしょうか。イエス様は「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言われました。私たちは今日もいつも自分を巡る戦いをしています。自分がどうみられているのか。自分がこうあるべきと思うことをやらない人たちに腹が立つ。自分の思うように生きられないことに腹が立つ。この進路に進むことが出来ないなら、自分の人生はダメになる。家の子どもは最低現これ位の人生を歩んでくれないと、私が恥ずかしい。なぜ自分ばかりがこんな目に会うのか。自分の状況、自分の健康、自分の進路、自分の家族、自分の人生を自分で受け入れられないんです。

何故でしょうか。深いところで私たちは思っているんです。自分はこんな者じゃあないと。人から批判されると何故腹が立つのか。自分はそんなことを言われる人間じゃあないと思っているんです。自分が握りしめているプライドが、実は私たちの人生を損ない続けているんです。逆に自分の人生は意味がない、価値がないと落ち込んでいるとしても、私たちは自分の人生を無駄だと感じ、踏みにじっているんです。

イエス様は「そんな自分を捨ててごらん」と語ります。しかし、悲しいことに私たちは自分の努力で自分を捨てることはできません。一度は捨てたはずのプライドを、一度は捨てたはずのやり方を、もう一度拾って、また握りしめている自分がいます。だから「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」。そうイエス様は命じておられるんです。

自分の十字架を負うとは、どういうことでしょうか。イエス様の様に十字架にかかって死ぬことでしょうか。違いますね。むしろ、イエス様に赦された命、与えられた命に生きることです。自分の十字架を負うとは、十字架の主の前に日々出てゆくことです。イエス様から愛され、赦されている喜びを味わいながら生きることです。

自分を捨てるとは何もなくなることではありません。自分を捨てる時、私たちはイエス様の愛に生かされている自分を見出すことができます。愛のない、人を赦せない、自分にだけ甘く、自分に取っての損得をすぐに考えてしまう私たちが、神の御子であることを捨ててまで仕えてくださったイエス様と共に歩む時、本当の自分が見えてきます。「わたしはあなたのために自分を捨てた」と言われる十字架の主の前に出る時、私たちは「ああこんなにも自分のことこだわらなくても良いのではないか」と思えてくるんです。もう自分の思い通りに生きてゆけなくても、自分の握りしめていたものを手放すことになったとしても、精一杯目の前にあることに生きてゆこう。背負うべき仕事、背負うべき家族、背負うべき生活を、向き合うことを避けてきたあの人との関係も、自分の弱さでさえも背負ってみようと思えてくるんです。十字架の主イエスの愛に包まれる時、私たちは自分に与えられた命の本当の使い方が、分かって来るんです。私たち皆で自分を捨て、自分の十字架を負う歩みを進めてゆきたいと思います。

2021年3月7日日曜日

レント「十字架上の七つの言葉(1)」ルカ23:32~38

  早いもので、今年も教会の暦で数えると受難節に入りました。昔からキリスト教会は復活をお祝いするイースターまでの46日間を受難節としてきました。その生涯の最後、十字架の死に至る一週間の歩みについて思い巡らしてきたのです。大竹先生と相談をし、今年と来年の受難節は、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉について一つ一つ取り上げ説教しようと考えています。

十字架上で語られた七つの言葉は四つの福音書に記されています。今日取り上げる「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)が最初の言葉。次に一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に告げられた「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)。第三番目は母マリヤと弟子ヨハネに言われた「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。…ご覧なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)という言葉。第四番目は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫び。第五番目の「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)と第六番目の「完了した。」(19:28)はともにヨハネの福音書に記録され、最後は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言うイエス様の叫び声で締めくくられます。

何故神の御子が十字架で苦しまねばならなかったのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを通して私たちのために何をしたのか。各々短くはありますが、私たちは七つのことばの全てを、十字架の主イエスによる渾身のメッセージとして聞きたいと思うのです。

さて、十字架前夜の出来事を振り返ります。イエス様はゲッセマネの園で逮捕され、一晩中嘘の証言で固められた裁判に引きずり回されました。ユダヤの宗教指導者はイエス様を亡き者にしようと、十字架刑を主張します。集まっていた群衆も「十字架につけろ。」と叫びだし、その勢いに押されたのか、ローマの総督ピラトは心ならずも死刑判決を下しました。

兵士たちはイエス様に皇帝の様な着物を着せ、茨の王冠を被らせると、殴り、唾をかけ、からかい、あざ笑いました。イエス様は数えきれないほど鞭打たれ、傷ついた体で刑場までの道を歩かされたのです。刑場に着くと両手両足とも釘づけにされ、十字架の木に吊るされました。痛みと出血、呼吸さえままならぬ苦しみの中、残されたわずかな力を振り絞り、イエス様が語られた言葉、それが七つの言葉です。そして、イエス様の口から出た最初の言葉、それはご自分を苦しめる人々のための祈りでした。

 

ルカ23:32∼34「ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 

イエス様が「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られましたが、「彼ら」とは誰のことでしょうか。イエス様が十字架の上からあわれみ見つめていた「彼ら」とは誰のことでしょうか。この時最も近くにいたのは二人の犯罪人です。マタイの福音書には、最初彼らは二人ともイエス様を罵っていたとあります。十字架の下では、ローマの兵士たちがイエス様の着物を分け合っていました。野次馬の様にこの出来事を眺めている民衆もいます。議員と呼ばれるユダヤの宗教指導者、政治指導者たちは「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」とあざ笑っています。「お前がユダヤの王だと言うなら、自分を救ってみろ。」と嘲る兵士もいました。

イエス様は一体誰をあわれみ、誰のために祈られたのでしょうか。「自分が何をしているのかが分かっていない」人々とは、誰のことなのでしょうか。

イエスは無罪と確信しながら、保身のため意にそぐわない判決を下し、自分には責任がないと手を洗う総督ピラト。抵抗できない者をさらに痛めつけ、嘲るローマの兵士。自分の正しさを確信して、イエスの命を奪うためなら手段を問わない宗教指導者。救い主と期待したイエスが望み通りにならないと、あざ笑い、攻撃する民衆。自分の罪は横に置き、イエスを罵る犯罪人。ここに登場する人々は皆罪人です。「これは酷い」と私たちも感じる人間の姿です。

しかし、ある人が、十字架を巡る人々の姿はこの世界の縮図だと言いました。私たちの社会、私たちの家庭の縮図であり、残念ながらキリスト教会の縮図でもあると言うのです。どうでしょうか、皆様はこの意見に賛成できるでしょうか。

この光景、観客の一人として眺めると、誰が罪人であるかは一目瞭然です。しかし、私たちはどれだけ、ここに登場するピラトや兵士のことを、宗教指導者や民衆、犯罪人のことを私自身だと思えるでしょうか。私たちは自分のこととなると、自分がどんな罪を犯しているのか、それ程わかっていないのではないかと思います。

私たちは普通、自分を中心にして世界を見ています。今日の個所で、イエス様はご自分を苦しめる者をあわれみ、とりなしの祈りをささげています。これを読むと私たちもイエス様のようにあの人、この人にあわれみ深く接し,祈ることのできる人にならなければと考えます。それは実に正しいことです。

それは正しいことなのですが、そうした時、実はこの私も赦されるべき罪を犯している罪人なのだとはなかなか思えないのです。「人を赦してあげる私」は見えていますが、「赦されて生きている私」は見えていないのです。「人に対してあわれみ深くあろうとする私」は見えていますが、「イエス様のあわれみに生かされている私」の姿は見えていないことが多いと思うのです。

自分を基点として周りを見る時、人の罪や欠点はよく見えますから、私たちは人の行動や欠点を非難します。その非難自体は間違ってはいないとしても、現実の問題と言うのは、人を非難するだけでは何一つ解決されません。それにもかかわらず、人を非難する時、私たちは自分の正しさを疑わず、何一つ問題を解決しない非難や攻撃を延々と続けてしまうことがあるのではないでしょうか。自分は間違ったことはしていない、少なくともこの人よりは正しい。そう思うがゆえに、人を嘲り、人を責め、人を赦そうとはしないということはないでしょうか。

私たちは時に心ならずも、意にそわない決断を下しながら、自分には何の責任もないと手を洗う総督ピラトのようです。時に抵抗できない者をからかう兵士のようです。時に自分の正しさを確信するあまり、相手を倒すため手段を問わない宗教指導者のようでもあります。期待をかけていた人が自分の思い通りにならないと、その人を非難、攻撃する民衆でもあります。時に自分のことは棚に上げ、言い返せない相手を罵る、あの犯罪人と同じことをしているかもしれません。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」これは二千年前、十字架のもとにいたすべての人のための祈りです。そして、今日礼拝をささげている私たちのための祈りです。大人も子どもも、男も女も、イエス・キリストを信じている人も、信じていない人も、すべての人が「イエス様は私のため、天の父に祈りをささげておられる」と知るための祈りなのです。二千年前の昔も、今朝も、イエス・キリストは私たちのため執り成しの祈りをささげてくださる救い主なのです。

それでは、イエス・キリストに祈られている者、赦された者として生きるとは、どういうことなのでしょうか。マタイの福音書にイエス様と弟子ペテロの赦しを巡る問答があります。

 

マタイ18:21∼35「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 

イエス様と弟子たちは共同生活をしていました。寝起きを共にし、同じ釜の飯を食べて生活していました。どこまでお互いのことを赦すか、我慢するのかということは切実な問題だったと思います。私たちも一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、相手の何気ない言動にイライラしたり、我慢できないと感じたりすることもあると思うのです。愛や赦しはこういう現実の中で問題になります。身近に生きる人々との関係においてこそ、愛や赦しが切実な問題となるわけです。

ある時、ペテロがイエス様のところに来て言います。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」当時ユダヤ教においては、三度赦せば立派なものと考えられていました。「七回まででしょうか」と尋ねたペテロはかなり頑張ったと言えます。三回で立派と言われていたところを七回までと言えば、イエス様から褒めてもらえると期待していたのかもしれません。

しかし、イエス様の言葉は驚くべきもの「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」と言われたのです。勿論、これは490回まで赦せばよいという意味ではありません。どこまでも際限なく赦しなさいという意味です。

続くイエス様のたとえ話「自分のしもべたちと清算をした王様」の意味は一見明瞭です。最初に来たのは一万タラントの負債があるしもべです。一万タラントというのは莫大な金額です。当時平均的労働者の一日の賃金が一デナリでした。一タラントが6,000デナリつまり6,000日分の賃金ですから一万タラントは6,000万デナリ、6,000万日分の賃金となります。一年365日一日も休まずに働いたとして、返済するのに16万年以上かかるというべらぼうな金額です。何度生まれて来たって、返済不能な借金です。

このしもべは「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします。」と王様に弁明していますが、これはやけっぱちな答えで、どんなに待ってもらったとしても、到底返すことなどできない借金だったわけです。王様のあわれみによって、負債の全てを免除してもらう以外、このしもべが救われる道はありませんでした。

さて、赦されたしもべは大喜びで王様のもとを去りますが、ばったり自分に百デナリの負債がある仲間に会います。すると彼はその仲間の首を絞めて返済を迫り、すぐに返せないと分かると牢に放り込んでしまったというのです。しかし、「もう少し待ってくれたら、返すことが出来る」という仲間のことばは無理のない提案に思えます。百デナリは100日分の賃金ですから、生活費を差し引いても半年もあれば十分返済可能な金額だからです。

それなのに、莫大な借金を王様に免除されたしもべは承知しなかった。一部始終を聞いた王様は、このあわれみのかけらもないような男を捕らえると、獄吏に引き渡したというお話です。このたとえ話を聞くと、誰が悪いのか明々白々です。しかし、「七回までは兄弟を赦します」と意気込んで語るペテロに対して、イエス様は問いかけています。「ペテロよ。お前には兄弟を赦してあげる自分の姿は見えている。けれど、わたしに罪を赦されながら、人の罪を赦そうとはしない自分の姿は見えていないのではないか」と。私たちにも同じ問いかけをイエス様はしておられるのです。

一万タラントとは百デナリという金額の対比は大分誇張されています。一万タラントという莫大な金額に比べれば、百デナリなど何ほどのものでもありません。しかし、もし私たちが四か月分程の給料を人に貸したとしたら、どうでしょうか。私なら絶対に忘れません。私たちは人から言われた些細なことや、人からされた些細な事が赦せない時があります。私たちは自分が一万タラントを免除され、赦された人間であることを忘れ、自分に百デナリの負債がある人を赦すことが出来ず、その人の首を絞めているのです。

自分が莫大な罪を赦されていることを忘れて、家族や同僚、兄弟姉妹の首を絞めるようなことを思ったり、ことばにしたり、行ったりしている。そんな私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけたのだと私たちは分かっていないのです。自分が何をしているのか分かっていないのです。

神様の目から見れば、社会や家庭や教会における私たちは、二千年前主イエスの十字架のもとにいた人々と同じではないかと思います。共に神様のあわれみによって生かされているのに、互いを責め、非難し、相手を赦せないと思っている。人を赦すのは難しい。罪人なんだからそんなことはできないと言いながら、自分のことは「神様、どうか赦してください」と祈る。私たちはたとえ話の悪いしもべと同じです。二千年前、十字架のもとにいた人々に優ってなどいないのです。

しかし、そんな私たちのために、イエス様は十字架に登り、本当なら私たちが受けるべき神の裁きを受けてくださいました。イエス様に罪赦されたにもかかわらず、今もなお心から人を赦すことのできない私たちのため、天の父にとりなしの祈りをささげておられるのです。この十字架の主が共におられるからこそ、心から人を赦すことのできない者であることを自覚しつつ、それでもなお私たちは赦しと和解の歩みを進めてゆくことが出来るのです。

2021年2月28日日曜日

「神の恵み ~恵みによって前進するために~」ローマ4:1~5,エペソ2:4~10

.序  〜恵み〜

皆様は聖書の中での「恵み」という言葉にどんな印象を抱かれますか?(日本でも英語圏でもこの言葉は好んで人名・教会名に使われますね) 私が20年前救われたアメリカ長老教会の宣教団体、そして彼ら宣教師によって建てられた教会の多くはこの「神の恵み」を最重要視していました。現在、福田真理先生らが行なっているアメリカ長老教会リディーマー教会と提携している東京都心伝道でも「福音」という言葉で「神の恵み」が重要視されているのを昨年の学びで再確認しました。「恵み」というと、例えば、おじいちゃんが孫可愛さで何でも許してしまう様な愛情、悪い所には目をつぶる様な寛容さなどイメージは様々でしょう。

「神の恵み」を理解するとは、端的には、私たちの内側の率直で内省深い罪理解と、そこに対してまず神の側が豊かなあわれみを示された事への理解です。「救い」はもちろんただではありません。神の御子の犠牲という莫大な代価が支払われています。とはいえ私たちはそれを信仰によりただで受ける事が出来ます。もう一つ忘れてはならないのは「恵み」の教育的側面です。本当に愛情深い親が、犠牲を惜しまない愛を持ちつつも子供を時に厳しくしつけ育てるように、人間の本質的な内側からの成長には「愛情」が不可欠ですが、それは全てを甘やかす愛ではありません。とはいえ、そういった親の愛の大きな特徴は惜しみなさ寛大さです。「神の恵み」とはこれらの性質を豊かに表すものです。

 

 

.恵みという言葉

エペソ2:4~10のみことばを読みましょう。

 

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

 

「恵み」という言葉は神の救いの中心的な言葉。その特徴的意味は優れた立場にある者からのそうでない者(相応しくない者)に対する無条件の愛情や好意です。普通は誰でも自分より優れた者には敬意を持ち、自分より劣った者・弱い者をわざわざ特別大切にするという事は稀(まれ)です。立派な者に与えられる称賛はむしろ当然の「報酬」であり、「恵み」とは言いません。私たちが一流のスポーツ選手、立派な業績を残した人、社会に多大に貢献した人などを誉めるのは彼らに相応しい称賛。一方、「恵み」とは人間 の一方的なもの。神から離れ罪という大きな問題を持っている私たちに与えられる神の無条件の愛です。神様は創造主であり完全に聖いお方。本来は、私たちの方こそ神様を誉め称えるべきです。ところが逆に神様は罪人である私たちを愛されます。誰であっても有名人がわざわざ自分の所に来て自分を名指しで誉めたら大変驚くでしょう。オリンピックで金メダルを取った選手、国民栄誉賞に輝いた人、イチロー元選手、また紅白歌合戦に出場したり、動画再生回数1位を獲得したアーティスト等からあなた宛に感謝状などが来たら、若い人ならばツイッター・インスタのフォローが付いたりコメントが来たら思わず家族や知り合いに話したくなる事ではないですか? そして、世界の王である神様は、どんな偉人・英雄より遥かに偉大な誉め称えられるべきお方。その神様からの一方的な好意を聖書では「恵み」と表現します。相応しくない者に与えられるという大きな特徴があります。私たち人間の愛情は大抵条件付きですが、神の愛とはその選びにおいて無条件です。

新約聖書で「恵み」を意味する言葉ギリシャ語「カリス」は最重要語句の1つでありラテン語「グラツィア(gratia)」・英語「グレース(grace)」の元となった言葉です。「恵み」は、信仰を通して全く価なしに頂く神からの賜物(プレゼント)という意味です。「信仰」もまた神様から私たちに恵まれ与えられたものです。神様は、罪によって滅びるべきであった私たちに心を向けられ、神の一人子である御子イエスを人として私たちの罪の罰を身代わりとして受けるため地上に遣わしました。この御子イエスを信じるなら私たちは再び神との関係を回復し、神と共に永遠のいのちの希望を持って生きる事ができます。神は御子イエスを救い主として信じる者にあふれるばかりにこの恵みを注がれます。決して善行の報酬としていただくものではなく、「恵み」が私たち罪人に与えられるのは人間の側の十分相応しい価値ではなく、神御自身の善良で憐れみ深い性質に基づくものです。

 

まとめ;「恵み」は神の救いの中心であり、全くそれに価しない罪人に対して与えられる神樣からの賜物(プレゼント)。私たちが善行の報酬としていただくことではなく、ただ信仰によって神樣からいただくこと。

 

 

.恵みについての考察点(ポイント)

この「恵み」について理解する上でいくつかポイントがあります。

   「恵み」は神の愛により無償(ただ)で与えられる。人間の善行によっては得られない。

 パウロは、エペソ書で恵みと律法の行いを対比し、救いは「恵みのゆえに信仰によって」与えられる「神樣からの賜物(プレゼント)」であり、決して人間の行いによるのではないと強調します。

 

「恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくな(る)」(ローマ11:6

 

とも言います。私たちが成功している時だけ、品行方正な良い人間として全く問題のない時だけ神の愛が注がれる訳ではありません。誰でも人生の中で失敗や上手くいかない事を必ず経験します。そして、完全に聖い方である神様の目から私たちの心の中の動機まで注意深く見る時、そこには非常に根深い罪の性質、とても人には見せられ無いような自己中心でエゴイスティックな心のやみを見出します。あるいは「自分は絶対間違っていない。悪いのは環境や他の人である」と信じそういったエゴに気付かない様にふたをしてしまう場合もあるものです。自分の罪にすらなかなか気が付かないのも人間です。神様の目から見た私たちの心の状態は罪の影響により破産して返しきれない借金があります。しかし、私たちがそれ程の問題を抱えたままであっても神様は私たちを深く心に留めイエス・キリストにあって愛し招いて下さいました。イエス様は罪人の友となって下さるお方、自分では救い様の無い者を招いて救うためにこそ地上に来られたのです。

   私たちは「恵み」により神との関係に入り、「恵み」によりイエス様に似た者へと成長する。

 人は恵みによってのみ神との関係に入ることができます。「恵み」は悔い改めた罪人に赦しを与え神との関係に和解を与えます。それだけでなく信仰者の人生を内から変革する力となります。神様の働きかけは、私たちの内側に住んでおられる聖霊の人格的な力(ギ;デュナミス=ダイナマイトの語源)により、キリストに似た者へ私たちの人格を造り変えます。クリスチャンは今でも罪の影響に苦しめられ弱さを持っています。その様な状態にありながら内側からその人を全く新しく造り変える働きにより恵みから恵みに成長していきます。その変化・成長が外側から見えにくい時もありますが、確かにその人にはイエスのいのちに満ちた内側からの根本的働きかけがあります。神様の力はダイナマイトの様にその人の内側で強力に働くものです。その時、その人の人生は他の人々に対する恵みとして作り変えられていきます。コリント8:1~9では、マケドニヤ教会の人々が極度の貧しさにも拘らず、彼らの内から神の恵みが「あふれ出て」、「惜しみなく施す富」となり、彼らはエルサレム教会の貧しい信徒たちのため多額の献金を捧げました。彼らは神の恵みに「あずかっている(参加している)」と言われる様になりました。

まとめ;神と人間の関係は「恵み」によってのみ成り立つ。「恵み」は人を救うだけでなく、クリスチャンを内側から変革する。彼らの内に働く神の恵みは、その人の人生を他の人々に対する恵みとしても造り変えていく。

 

 

.アブラハムの例(ローマ4:1~5

 ローマ書の中心テーマは「信仰義認」。神の前での人間の側の手柄(行い)のゆえでなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われる(=義とされる)という事です。エデンの園で最初の人間アダムとエバは罪を犯し神から離れました。それまで「わざの契約」があり、エデンの園での神との約束を完全に守る事により成立するものでしたが、人間は罪を犯しそれに叶う事は出来ませんでした。神への背きの罪の問題は決して他人事では無く、私たちの誰しも心の中心から神を退け自己中心に生きて行こうとする思いを持っています。しかし、神様は私たち人間が滅びる事を望まず「恵みの契約」をお与えになりました。私たちがキリストを信じ、十字架と復活を信じる事で救いを得るというものです。私たち人間は、神様がアブラハムに示された「恵みの契約」を通し救われます。この契約の唯一の仲保者は主イエス様、イエス様は十字架によって私たちの罪の罰を受けて下さいました。アブラハムは完全な福音理解こそ無いが「恵みの契約」を信じて救われ、彼の後の子孫も救われるとの約束から「信仰の父」と呼ばれます。「信仰によって救われる」「神の恵み」は、私たちクリスチャンの土台として信仰のスタート時だけでなく私たちのその後の人生の中心でもあり今も必要です。「信仰の父」アブラハムの姿を見ていきます。ローマ4:1~3

 

1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
2
もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
3
聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。

 

1節「肉による(私たちの)父祖」とは肉親親族のこと、民族的な彼らの祖先アブラハムの事です。多くのユダヤ人たちが自分たちのアイデンティティを彼らの民族的先祖アブラハムに置きました。そして、「アブラハムの立派な行いと彼自身の信仰の手柄によって救われた」と理解し、「彼の子孫である我々にも、神の前に民族的優越性がある」と考え違いをしました。ですから、パウロの主張、アブラハムでさえも神の前に行いによって義と認められたわけでは無い(2節)という言葉は彼らにとって大変なショック、プライドを傷つけるものでした。 アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた(4:3とは、彼がただ神を信じ「恵みの契約」を信じた事により、神のご愛とあわれみのゆえ「恵み」によって義とされ救われたという事です。信仰の父、ユダヤ人の絶対的な拠り所のアブラハムでさえ彼自身の良い行いや力により救われたのではないのです。さらに「恵み」と「報酬」の違いをパウロは説明します。ローマ4:4~5

 

4働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

 

「働きがない人(第3版「何の働きもない者」)」「不敬虔な者」が義と認められるという事は、これは神の側の私たち罪人への一方的な善意・特別な恩恵、恩赦と言えるものです。私たちの日常で考えると、働く者が当然の権利として受け取る賃金(労働の対価としての「報酬」)と「恵み」は異なります。日々精一杯働いた人が労働の対価として「報酬」を受ける事は、良い事であり大切です。しかし、私たちと神様との関係はこの様に対等ではなく、罪が大きな仕切りとなり、完全に聖い神様と罪深い私たちの間には大変大きな壁があります。私たちが神の前に自分を十分吟味する時、自分がどれほどすぐ神様を脇に置き自己中心の思いに捕らわれやすいか、神の前にどれほど弱く無益な存在であるかを自覚させられます。たとえ犯罪を犯していなくとも、クリスチャンであるとしても、思いにおいて、行いにおいて、すべき事をしない事においてどれほど神様に選ばれるに十分相応しくない者であるのかを自覚します。神様は、その様な相応しく無い者をもキリストの十字架により「義と認め」救って下さいました。それは「神の恵み」です。私たちは毎日、自分自身にこの「恵みの福音」を告げるべきです。「恵み」とは罪あるものが無償(ただ)で受けるものであり成功の見返りではないのです。成功して得られるのは「報酬」であり、それでは「恵み」が「恵み」でなくなってしまいます。

 

 

.適用とまとめ

 私たち日本人にも「神の恵み」を十分理解する難しさがあるかも知れません。現代人もそうです。近代合理主義に基づく現代社会は人間の行いの社会と言えます。あらゆる事柄は人間の理解の範疇にあるとされ、科学的に説明のつかない非合理的なものは迷信や思い込みとして脇に追いやられます。何事にもその理由づけが求められる時代。その様な中、「ただ受け取る事」は最も非合理とも感じるでしょう。

しかしそれは、人間の本当の罪深さ、神の本当の聖さを良く分かっていないせいと言え、それらを本当に理解するなら私たちに自力による救いの道は無く、ただ「神の恵み」が必要だと知ります。それこそが一番理に適っています。

また、日本社会も戦後の発展思考の中で、機能論的人間観(=他人・世の中の役に立つからこそ初めて存在価値がある)が今も支配的です。人は見返りを得るためにまず努力を続けるべきであり何かをただで受け取るというのはとても苦手、何か騙されている様な気がすると聞きます。「ただより高いものは無い。」 家族親族や親しい友人以外からただで何かを受け取るのに違和感を感じ、詐欺や何か交換条件があるかも知れないと不安になると言います。人間同士の関係においては確かにそうです。この傾向は私が大学生宣教を手伝っていた時も同様でした。学生たちは、神から「ただで受け取る=恵み」に対してどうしても違和感・抵抗があるという人が多く、小さいプレゼントを除けば、すぐに「ラッキー!」とプレゼントを受け取りにくいのが日本人の性(さが)かも知れません。確かにそれは虫の良い話。

しかし、神との関係においてはその様な貸し借りで判断する事は出来ず、いつもまず私たちが受け取らなくてはなりません。また、自分の罪や問題・無力さを認める事は、自分自身をあきらめてしまう恐れがあると聞きます。しかし、神の前に自分の罪深さや問題を認めSOSを出す事は、自分自身の人間性をあきらめる事ではなく、むしろ唯一本当に自分らしく生きる道だと言えます。宗教を求めるのは弱い人間だという人もいますが、自分の弱さ・問題をしっかり受け止め助けを求められるのは、弱い人間ではなく本当に強い人間でしょう。私たちが勇気ある一歩をもってこの「恵み」を受け取る時、私たちの人生の動機は大きく変えられます。

 

18~19世紀の偉大な宣教師ウィリアム・ケアリはインドで莫大な業績を残し40以上の原語・方言への聖書翻訳などを行いました。彼は「神から多くのことを期待せよ。神のために多くのことを試みよ」という有名なスローガンを残しました。その様な傑出した信仰の人はしかし、70歳の誕生日に自分の息子にこんな手紙を書き送っています。

「私はこの日、神のあわれみと善意の記念として70歳を迎えます。もっとも、自分の人生を振り返ると、ちりの中で辱められて謙遜にさせられるのが当然であった多くのこと、それも非常に多くのことに気づかされるのです。私の全く疑う余地のない罪は数え切れないほどであり、主の働きにおける私の怠慢はかなりのものでした。私は主の大義を推し進めてこなかったし、当然のことであったのに神の栄光と誉れを求めずにきてしまいました。こうしたすべての事にもかかわらず、私は今に至るまでに斟酌(しんしゃく)されているし、なお主の働きの中に引き留められているのです。そして、主によって神の好意の中へと迎え入れられている事を、私は確信しています。」 *しんしゃく;相手の事情・心情などを汲み取ること

彼は人生の晩年弱気になった訳でも自尊心が不健全に低かった訳でも無く、本当に敬虔な成熟した信仰者の2つの特徴を良く映し出しているとジェリー・ブリッジズは言います。それは以下です。

自分自身の、神の前での罪深さを謙虚に事実として認める事

それ以上に大きな「神の恵み」を感謝に満ちて受け入れる事

 

パウロはユダヤ人の信仰理解が一変する大変なチャレンジを投げかけました。それは、本当の「神の恵み」を理解する事です。

神様はこのパウロの手紙を通し、私たちにもメッセージを投げかけられます。歴史上の世界中のクリスチャン達に働き、彼らの人生を一変させた「神の恵み」を受け取るチャンスが私たちに与えられています。また、すでにクリスチャンとしてキリストと共に歩んでいる方々にも、今一度、主の前に我が身を振り返り、へりくだり、主の大きな恵みを受けていただく事、その「恵み」に精一杯お応えし、今後も人々の恵みとなる人生を歩んでいかれる様にとお勧め致します。

最後に、一般に神の戒めや信仰の戦いのメッセージより恵みのメッセージの方が耳に優しいという事を聞きます。しかし、聖書に従い牧会者の良心に基づき語られるという前提が守られているなら、それらのメッセージは1人1人のクリスチャンにとり皆有益なものと信じます。冒頭にお話した様に、真に愛ある親に愛情深さ寛大さと共に教訓的な面・毅然とした面、様々な面があるのと同様です。主にある牧会者・説教者の願いは皆同じ、主の民である皆様に、神様の望まれる本当に良い道・神を愛し聖書の教えに従う歩みをして頂きたいという事です。

今日お話ししたのはその主に従うモチベーションを常に持ち続けて主に期待し続けて前進して頂きたいという事です。恵みを頂いてそれで終わりではありません。いやむしろ恵みとは常に私たちの応答を求めるものです。皆様がますます神を愛し、恵みの道を歩まれます事を心よりお祈り致します。


2021年2月21日日曜日

一書説教(65)「ユダの手紙~自分自身を築き上げる~」ユダ1:17~21

 「信仰生活」を何かに例えると、皆様は何に例えるでしょうか。自分にとって楽しいもの、喜ばしいものに例えるでしょうか。それとも大変なもの、苦しいものに例えるでしょうか。聖書の中に信仰生活を例える表現が出てきますが、競走や、拳闘、戦闘と、その多くは大変なもの、苦しいイメージです。

キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救われるのではない。何か出来るから恵みを受けられるのではない。私たちがすることではなく、神様がして下さることが大事。私たちは無条件に愛され、価無しに救われたのです。この視点だけであれば、信仰生活は楽しいもの、喜ばしいイメージなはず。しかし、私たちは何も取り組まなくて良いと教えられているわけではありません。信仰を守り、信仰のために戦うように。信仰者として意識し、取り組むべきことが多くあることも示されています。そして、それは実に大変なもの。信仰生活が大変なものに例えられているのは、むしろこの部分に焦点が当たっているからでしょう。

 

 ところで信仰生活において「神様がして下さること」と「私がすること」を、聖書の教える通りに受け取り続けることは意外と難しいことです。

神様の愛は変わらない、キリストによって何をしても罪赦されるのであるから好きなように生きるという放縦、自堕落の道か。あれもしないといけない、これもしないといけないと信仰生活を義務、責務に感じる。自分の正しさを示すために信仰生活を送る律法主義の道か。私たちは、どちらかに傾きやすいものです。

恵みを受けるために良い行いをするのではなく、恵みを受けたらから良い行いをする。良い行いが出来ること自体も恵みである。このことは頭では理解出来ても、実際の信仰生活の歩みの中でその通りに生きることは難しいものです。いかがでしょうか。自分自身の信仰生活を振り返った時、どちらかに傾いた歩みとなっていないでしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十五回目、新約篇の二十六回目、ユダ書となります。

 新約聖書は大きく四つに分類出来ます。イエス様の生涯を記した福音書が四つ。弟子たちの活躍を記した歴史書が一つ。新約聖書唯一の預言書が一つ。残り二十一は書簡でした。実に新約聖書の九分の七が書簡、これまで二十の手紙を読み残りは最後の一つとなりました。一章だけの小さな手紙、手のひら書簡、豆粒書簡、ユダ書。ユダを通して語られる言葉から、自分の信仰生活がどのようなものか、私たち皆で考えたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 ユダ書は次のように始まります。

 ユダ1章1節~2節

「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」

 

 ユダとは「ほめたたえる」という意味で、よくある名前の一つ。この手紙を書いたユダはどのユダかと言えば、ヤコブの兄弟ユダと名乗っています。ヤコブという名前も多くありますが、ただ「ヤコブの兄弟ユダ」と名乗るだけで誰だか分かるとすれば、イエス様の肉の兄弟、ヨセフとマリアの子どものユダと考えられます。

聖霊によってイエスを産んだマリアは、その後で子どもを男子だけで四人産みました。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。この中のヤコブが、やがてエルサレム教会の重鎮となり、ヤコブ書を書いたと考えられ、この中のユダがこのユダ書を書いたと考えられます。

ユダは、イエスキリストの兄弟とは名乗らず、イエスキリストのしもべと名乗る。幼い時から、最も身近にイエスを見てきた自負を出さず、キリストによって救われたしもべとして手紙を記す。ユダの清々しさを感じます。

宛先は、「神に愛され、キリストに守られている方々」となっています。これまで確認した手紙は教会宛てでも個人宛てでも、特定の相手に記されたものが多かったですが、この手紙は全てのキリスト者へ向けて記されたもの。一つの教会に当てはまる内容というより、全てのキリスト者に当てはまる内容。普遍性の高い内容となります。

 

 キリストのしもべでありヤコブの兄弟であるユダから、全てのキリスト者へ。祝福の挨拶が記された後、手紙を書いた目的が記されます。

 ユダ1章3節

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」

 

 ユダはもともと手紙を書こうとしていた。それも「救い」について、救済論をテーマとした手紙を書こうとしていたと言います。興味深い、読んでみたいと思うところ。しかし、その手紙は聖書になく、ユダがどのようなことを書こうとしていたのは天国での楽しみとなります。

 書きたいことがあった。しかし、それよりも緊急に書くべきことが出来た。何かと言えば、「信仰のために戦うよう」に勧めるというのです。「戦いに備えるように」ではなく、「戦いに出るように」。「合戦の招集」ではなく、「進軍の号令」。緊張感があります。一体、どのような戦いに出るのか。何が問題となっているのか。

 

 ユダ1章4節

「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。」

 

 信仰の戦いに出るように、その理由をユダは「ある者たち」が忍び込んできたからと言います。異端の問題、偽教師の問題。ユダが戦うように号令をかけているのは、聖書の教えから外れるように働きかける者たちに対してでした。

その特徴は、不敬虔であり、恵みを放縦に変える、イエス・キリストを否定すること。この「不敬虔に生きる、恵みを放縦に変える、キリストを否定する」ことが教会の中に入りこむことを許さないように。その影響を受けないように。そのような考え方とは戦い抜くようにと言われます。誤った教え、偽教師の問題の中でも、特に不敬虔や放縦が問題となっているのです。

(ユダ書は5節以降、手紙の中盤部分で、不敬虔な者たち、恵みを放縦に変える者たちに対する裁きがどのようなものか、様々なものを引用しつつ取り扱います。今回の一書説教で、その部分は割愛します。)

 

 ところで二十一ある手紙を読み比べてみますと、早い段階で書かれた手紙が問題とする中に、割礼の問題がありました。救いにはキリストを信じる以外にすることがあるのか、割礼が必要なのか。救いには割礼が必要であるという考えに、パウロは徹底的に戦いました。ガラテヤ書は、特にこの問題を扱った書ですが、次のように記されています。

 ガラテヤ5章3節~8節

「割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。」

 

 大変強い調子。救われるのにキリストを信じる以外にすることがあるという考え方に徹底抗戦するパウロ。ガラテヤ書はパウロが書いた初期の手紙の一つですが、この時代の教会は、自分のすることが大事ということに傾き過ぎていた。

 ところがパウロが書いた最晩年の手紙では、次のように記しています。

 Ⅱテモテ3章1節~5節

「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」

 

 後輩牧師テモテへ記した牧会指南書の中に、「困難な時代」が来ることの勧告がありました。不敬虔の者、恵みを放縦に変える者たちが現れる時が来る。言葉多く、注意喚起していました。

教会、信仰者はある時には、自分の力で信仰生活を成し遂げようとする律法主義の道に傾き、ある時には放縦、自堕落の道に傾く。右に左にフラフラしてしまう様が、二十一の書簡を見渡すことで確認出来ます。自分の力に頼る歩みをしてしまう、と思うと、神様の恵みの上にふんぞり返り好き勝手に生きてしまう。この問題は二千年前から続く信仰者の課題であることが確認出来ます。

 パウロは「困難な時代」が来ると告げていましたが、ユダ書では「ある者たちが忍び込んできた」と告げています。緊迫感が増しいよいよその時が来ている、戦いに臨むようにというユダの筆です。

 

これが、一つの教会に向けて書かれた手紙ではなく、全てのキリスト者に向けて記された手紙であることに注目します。キリストを信じる全ての者に、不敬虔に生きる、恵み放縦に変えるという危険性があるということです。

もし私たちが、「神様は無条件に私を愛して下さる」「キリストによって全ての罪が赦される」ことを理由に、不敬虔に生きることを良しとする、放縦に生きることを良しとするとしたら、それはイエス・キリストを否定する状態となっている。教会に恐ろしい問題を引き起こそうとしていることになっているのです。くれぐれも気を付けるようにと教えられます。

 

 このようにユダ書は信仰のために戦うように教える書ですが、それでは信仰のために戦うとはどのようなことでしょうか。

 ユダ1章17節~21節

「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 「戦う」と言うと、敵対者がいて、打ち倒す印象です。不敬虔、放縦と戦うとなれば、不敬虔な者、放縦を勧める者と戦うイメージとなります。

しかしここでユダが言う具体的なことは、敵対者を倒すのではなく、自分自身に関することでした。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げる」「聖霊によって祈る」「神の愛のうちに自分自身を保つ」「主イエス・キリストのあわれみを待ち望む」こと。これがユダの提示する信仰における戦い方です。

 

 ところで興味深く、またどのように考えたら良いのか難しいと思うのが、ここでユダが言う「最も聖なる信仰」ということが、具体的にどのようなものか、この手紙の中に出てこないことです。「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」と言いながら、その「最も聖なる信仰」が何か触れていない。皆様は、この「最も聖なる信仰」とは何だと思うでしょうか。

何故ユダは、「最も聖なる信仰」が具体的に何なのか記さなかったのでしょうか。それは最も聖なる信仰がどのようなものか、知っている相手に書いているからでしょう。ユダは手紙の読者に対して「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」と言いました。読者は、キリストの使徒たちが語った言葉を聞いている者、思い起こすことが出来る者。私たちに当てはめて言えば、聖書を知る者、信じる者ということ。つまり「最も聖なる信仰」とは、聖書の教える通りに信じる信仰。聖書の教えから外れない信仰という意味です。

 信仰の戦いの中心にあるのは、聖書の教える通りに信じる者として生きること。聖霊、神、キリストと三位一体の主との関係の中で、キリストに似る者となる歩みをすること。これが、不敬虔や放縦の歩みから、あるいは律法主義の歩みから、私たちを守るものでした。

 

 ところで、信仰の戦いに臨むように、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」勧められた私たちが、それを自分の力で果たそうとしたら、結局のところ、律法主義的な歩みとなってしまう。ユダは最後の最後まで配慮して、次のように手紙を閉じていました。

 ユダ1章24節~25節

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 ユダは私たちに信仰の戦いをするように。「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」と言いました。しかし同時に、私たちがつまずかないように守ることが出来る方、傷のないものとして神の御前に立たせることが出来るのはイエス様なのだと言います。

 信仰の戦いをすること、自分自身を建て上げること、キリストに似る者となること。これらは私たちが取り組むことであり、同時に神様がして下さること。どちらかだけではなく、そのどちらもというのが、ユダの視点であり、聖書の視点でした。

 「神様がして下さること」と「私がすること」、どちらかだけに重きを置くと、律法主義的な信仰生活になるか、自堕落、放縦の信仰生活になる。聖書に記された教会の歩みを確認しても、自分自身の信仰生活を振り返ってもそう思います。くれぐれもどちらからだけでなく、両方の視点を持つように。神様から頂いた多くの恵みに目を留め、その恵みに応じる者として信仰者の歩みを全うしていきたいと思います。

 

 以上、書簡の最後の最後に位置するユダ書を確認しました。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。

新約聖書に含められた二十一に及ぶ書簡を読み進め、多くのことを教えられてきた私たち。その最後のユダ書にて、「最も聖なる信仰の上に自分を築き上げるように」、「聖書の教える通りに信じる者として生きるように」と確認しました。しかもその歩みは自分で取り組むことであり、神様がして下さることだと受け取ることで、この書簡の歩みの総まとめとしたいと思います。

2021年2月14日日曜日

「不信仰な私を」マルコ9:14~29

  聖書には様々な病人が登場します。目、耳、口、手、足、頭、皮膚、骨、内臓、そして精神。老いも若きも、男も女も、社会的立場や人種の別なく、人間は様々な病に侵され、苦しんできました。今日の個所にも病を患う子どもが登場します。病気の子どもは可哀そうです。子どもは幼い時から悪霊に取りつかれていました。一旦発作が起きると火の中であれ、水の中であれ転げまわり、自分の苦しみを説明する口も動かず、人が語る慰めの言葉も聞く耳も開くことはなかったというのです。

父親にも同情を禁じえません。苦しむ我が子を見守ることしかできないその苦しみは察するに余りあります。今日の個所の主人公はこの父親です。注目したいのは、この父親が口にした「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」という叫びです。これはキリスト教信仰の核心に触れる言葉ではないかと私は思っています。

最初に、病気と悪霊の関係について、聖書の教えを確認しておきます。聖書は通常の病気と悪霊につかれた病気を区別しています。病気なら何でも悪霊によるとも、病人が医者にかかることは不信仰であるとも考えてはいません。初代教会において、人々はギリシャの医療を積極的に受け入れていました。神は医者も薬も用いて人間の病を癒されると信じていたのです。

その当時、貧しい人々は治療も受けられず、放り出され、見捨てられていました。彼らの多くは怪しげな魔術や呪いに縋るしかなかったのです。キリスト教会は貧しい人々に医療を通して助けの手を差し伸べました。そんなクリスチャンたちの親切から、世界で初めてホスピタル、病院というものが生まれたと言われます。ただ、そうであってもクリスチャンたちは通常の医療の領域ではない、イエス・キリストのみ名による祈りによらなければ治せない人間の精神と体の現実があることも知っていたのです。今日の個所、主人公の父親が連れて来た子どもの病が悪霊によると言われていることを、私たちもそのまま受けとめたいと思うのです。

 

マルコ9:1420「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。」

 

イエス様は「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねておられます。イエス様は子どもの苦しみにも、父親の苦しみにも心を向けておられます。それに対して「幼い時からです。私たちをあわれんで、お助けください」と父親は答えます。この「私たち」という一言に、家族の者すべての思いが込められています。子どもはもちろん、父も母も兄弟も家族全員の苦しみを思わされます。

父親はイエス様が近くに来られたことを知り、朝まだ暗いうちに家を出てきたのかもしれません。イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人の弟子はまだ山から戻っていませんでしたが、そこにはこれまで悪霊を追い出し、病人を癒してきた他の弟子がいました。父親は彼らに悪霊の追い出しを願いますが、彼らは何もできませんでした。すると、それを見た律法学者と弟子たちの間で議論が始まったのです。

律法学者たちは弟子たちが何もできないのを見て、彼らを遣わしたイエスを批判し、弟子たちも反論したのです。「確かに、私たちには癒すことが出来なかった。でも、あなたがたにはできるのか。できるものならやって見せてくれ。さあ、どうする、どうする。」そんな議論が繰り返されたことでしょう。

弟子たちはいつのまにかイエス様を神と信じて祈るよりも、自分たちに悪霊を追い出し、病を癒す特別な能力が備わっているかのように思い込んでいたのです。神から与えられた賜物を、いつのまにか私のものと思いこみ、思うがままに使うことが出来ると考えて、おごり高ぶっていた様です。

ここにあるのは人間にはどうしようもできない現実です。律法学者も弟子たちも、心を合わせて神に祈らなければ解決できない問題がここにはあります。それなのに、律法学者も弟子たちも、相手を批判し、自分を正当化するために論じ合っています。苦しむ父親と息子のことはそっちのけ。批判合戦を繰り返しては、自分たちのプライド、立場を守ることに心捕らわれているのです。

けれども、これは昔々の弟子や律法学者にすぎないのでしょうか。今この世界でも、身近な社会、学校、家庭、教会であっても、神に祈らなければどうすることもできない現実が現れてきています。皆が協力しあうことがなければ、皆が神に立ち帰らねば、どうすることもできない問題が存在します。それにもかかわらず、世界の国々の間には隔ての壁があります。日本の社会にも、家庭にも、会社にも、教会にも、目に見えない隔ての壁があるのです。こちらが正義なら、向こうは悪。こちらが信仰なら、向こうは不信仰。こちら側と向こう側に分かれて攻撃し合い、批判し合う。そのような関係が様々な至る所に存在します。

ある日の新聞に、今の日本はとても攻撃型の社会になって来たと言う、一人の社会学者の文章が載っていました。インターネットやSNSの発達によって、誰かの失敗やスキャンダルを見つけると、一斉に攻撃する。誰もが簡単に,匿名で、正義の味方になって、言い返せない相手をパッシングする。そういう時代の雰囲気が社会を覆い、学校にも家庭にも影響を及ぼしていると言うのです。こういう私たちの心もこそ祈りによらねばどうすることもできない霊的な現実なのだと思います。

さて、父親から一部始終を聞き終えたイエス様は何と言われたのでしょうか。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。」そう言われたのです。柔和で、優しく、謙遜なイエス様の口から出たこの厳しい言葉を、私たちはどう受けとめたらよいのでしょうか。

この言葉はそこにいた律法学者、弟子たち、群衆、すべての人々に向けられています。神に祈らねば、どうすることもできない問題を前にして、祈るよりも自分たちを守るため議論ばかりしている私たち人間に対して語られています。

それでは、悪霊につかれた息子の父親はこれをどう聞いたのでしょうか。父親の語る言葉を見ると、父親はイエス様と同じ立場に立っています。イエス様と同じ側に自分を置いて、弟子たちの不信仰を批判しているのです。

 

9:21~22「イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

 

「イエス様、あなたの言う通りです。あなたの弟子たちは不信仰で私の息子から悪霊を追い出すことはできませんでした。私はがっかりしました。御覧の通りです。でも、もしイエス様あなたがお出来になるのなら、私たちをあわれみ助けてくれませんか。」父親はそう言っているのです。

この父親は思い違いをしています。「ああ、不信仰な時代だ」というイエス様の言葉が、実は自分に対しても言われていることに気がついていません。イエス様と一緒になって、弟子たちの不信仰を嘆いています。「あなたの弟子たちにはできませんでしたが、先生であるあなたにはできるのですか。もし出来ると言うのなら、助けてください。」イエス様はそんな父親に問い返します。

 

マルコ9:23~24「イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 

「あなたは弟子たちの不信仰を責めている。そしてわたしに、『あなたの弟子たちにはできないとしても、もしあなたにできるなら助けて欲しい』と言う。しかし、そう言うあなたの信仰はどうなのか。」私たちも心を探られる言葉です。

私たちも、まるでイエス様と同じ立場にあるかのような思いで、他の人の不信仰を嘆くことはないでしょうか。イエス様と同じ側に立って、他の人の失敗や罪を責めていることはないでしょうか。イエス様はそんな私たちに問いかけているのです。「人の不信仰を嘆いている。そんなあなた自身の信仰はどうなのか」「人の罪を責めている。そんなあなた自身に罪過ちはないのか」。

心刺された父親はすぐに答えます。「イエス様、あなたを信じます。」そして、次の瞬間、「私は不信仰な者です」と叫びました。「私は今まで不信仰でしたが、今は信じています」ではありません。「信じます。信仰のないこの私をお助け下さい」と声を挙げたのです。父親は気がつきました。「不信仰なのは弟子たちではない。イエス様の前に、神様の前に、私こそが不信仰なのだ」と。父親はイエス様を信じました。信じましたが、イエス様が助けて下さらなければ、到底イエス様を救い主と信じることのできない自分の弱さを認め、告白しているのです。

私たちは神様の恵みに触れて、「神様感謝します。どんな時にもあなたを信じ従ってゆきます」そう告白できる時があります。しかし、苦しみと不安の中で、「私は心から神のことばを信じてられない。私は本当に救われているのだろうか」と不信仰を嘆く時もあるのです。しかし、そんな不信仰な私たち、信仰なき私たちを神は信じる者へと助けてくださるのです。

信仰の決断、洗礼の決心をためらっておられる方にもお伝えしたいと思います。揺るがない信仰がなければクリスチャンになれないと思ってはいないでしょうか。「自分には本当に小さな信仰しかない、そんな者が洗礼を受けても大丈夫なのか。信仰の歩みを続けることが出来るのか」。そう考え、ためらっておられることはないでしょうか。

今日の個所で確認できるのは、私たちの信仰の大小によってイエス様の恵みは左右されないと言うことです。たとえからし種一粒ほどの小さな信仰でも、それは神の恵みによって与えられたものなのです。不信仰な私たちの中にある小さな信仰、揺れる信仰を、イエス様はしっかりと見ておられるのです。事実、イエス様はこの父親の信仰を受け入れると、汚れた霊を叱りました。

 

マルコ9:2527「イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。」

 

私たちの内側にも、口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊が働いています。「イエス様を救い主と信じます」と告白させない霊、「主イエスの十字架に罪の赦しと永遠の命がある」という救いの福音を聞こえなくする霊が私たちのうちには働いているのです。イエス様はこの子どもにしたように、私たちのうちに働く不信仰の霊を追い出し、私たちの信仰を支えてくださるのです。今朝も、私たちの手を取り、信仰の杖を与え、一週間の歩みへと導いてくださるのです。

人の不信仰や罪を責める思いが心に満ちる時、私たちは高ぶりの中にいます。「神の前にあなたの信仰、あなたの罪はどうなのか」と問われるイエス様の声に耳を傾ける必要があります。逆に「私なんか」と自分の不信仰と罪ばかりを見つめる時、私たちは自己憐憫のなかに落ちてしまいます。私たちは十字架の福音に耳を傾け、自分に与えられた小さな信仰や罪の赦しの恵みに、心から感謝をささげたいと思うのです。

「信じる者には、どんなことでもできるのです」とイエス様は言われました。完全に天の父に信頼し、心から神のみ心に従いとおした人間はイエス様おひとりです。「どんなことでもできる信じる者」はイエス様ただ一人なのです。私たちにはイエス様の様な完全な信仰もなければ、服従もありません。私たちの信仰は不完全で、小さく、弱いのです。

しかし、そんな私たちのために、イエス様は十字架に命をささげてくださいました。主イエスはご自分にとって最も苦しく、最も忍耐を必要とする神の罰を、私たちに代わり受けてくださいました。十字架に示された主イエスの愛こそ、私たちの信仰を励まし、養い、支えてくれるものです。私たちのうちに生きて、働いておられる十字架の主を見つめつつ、ただひたすらに神を信じ、神に従う道を歩む者でありたいと思うのです。

 

ガラテヤ2:20今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」