2020年8月30日日曜日

一書説教(61)「ペテロの手紙第二~知ること、思い出すこと~」Ⅱペテロ1:1~8

 

 長らく取り組んできました一書説教、今日は通算六十一回目となります。八年目にして、十一分の十が終わり残りは六書。いよいよ大詰め、終わりが見えてきました。今日、皆様とともに確認するのはペテロの手紙第二となります。ペテロと言えば、十二弟子の中でも一際目立った人。本名はシモン、イエス様からペテロと名前をもらいました。ガリラヤ湖で漁師をしていたところ、イエス様から直接「人間をとる漁師に」と声をかけられ従いました。記録されたものから受ける印象は、考えるより先に動き出す人、思慮深いというより行動派、冷静というより感情豊か。福音書と使徒の働きに、多くの活躍と同時に多くの失敗も記録されていて、キリストの一番弟子とも言える人物でありながら、信仰の英雄というより、身近な存在に感じられる人。このペテロが記した書は新約聖書に二つだけで、この第二の手紙が絶筆の書となります。

 手紙の中でペテロは自分自身のことを次のように言っています。

 Ⅱペテロ1章14節

私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。

 「間もなくこの幕屋を脱ぎ去る」、つまり地上の生涯の終わりが間近であるとペテロは考えている。第二の手紙は死を間近に感じている最晩年のペテロが記した書。遺言の意味合いがある書。

 

 またペテロは第一の手紙で試練と信仰について次のように記していました。

 Ⅰペテロ1章6節~7節

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

聖書に記されているだけでも多くの試練を通らされたペテロ。記録されていないことも含めれば、一体どれだけの苦難を通り抜けたのだろうと思います。最晩年のペテロと言えば、練りに練られた信仰者と言えます。練りに練られたペテロは一体何を語るのか。天に召される前に、続く信仰者に何を伝えたかったのか。

 

 そしてこの手紙は私たちに宛てて記されたものでした。

 Ⅱペテロ1章1節~2節

イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 新約聖書にある手紙には、教会宛て、個人宛のものが多いですが、この手紙は「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」に宛てられたもの。キリストを信じる全ての人へ。ある教会の問題、ある個人とのやりとりではないため、普遍的な内容の手紙と言えます。そして「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」と言えば、私たちも含まれるのです。普遍的な内容にして、私に宛てられた手紙。最晩年のペテロが、私に宛てて記した手紙。練りに練られた信仰の先輩から、後輩の私に宛てられた手紙。ペテロの遺言説教。私たち一同で心して読みたいと思います。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 さて手紙を読むにあたって、ペテロについて一つ確認しておきたいことがあります。イエス様が十字架で死に復活された後、ガリラヤ湖で弟子たちに会われた場面がヨハネの福音書に収録されていますが、ここでイエス様がペテロに声をかける有名なやりとりがありました。

 ヨハネ21章15節

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの子羊を飼いなさい。』

 

 「わたしを愛するか」と確認があり、「羊を牧しなさい」と使命を与える。この時、このやりとりが三回繰り返されました。十字架直前、イエスを知らないと三度言ったペテロに、三度イエスを愛していると告白する機会を与えられ、使命が確認される。他の弟子にはない、特別な取り扱いを受けたペテロ。イエス様から「わたしの羊を牧しなさい」と言われた人物です。それではペテロは何を大事なこととして牧会に励んだのでしょうか。牧師ペテロは、おもに何に力を注いだのでしょうか。

 この手紙の中に、次のような言葉があります。

 Ⅱペテロ1章12節~13節

ですから、あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです。それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。

 

 「地上の幕屋にいる限り、なすべきだと思っている。」「地上での命がある限り、取り組むべきことがある。」と言います。牧師ペテロは、明確に自分が力を注ぐべき事柄があると言うのです。何か。「それを信仰者にいつも思い起こさせる」「それをキリスト者に思い起こさせて、奮い立たせること」と言います。そして、これは反対から見れば、私たち信仰者はいつも思い起こすべきことがあるということです。

それでは、ここで言われている「それ」とは何でしょうか。

 Ⅱペテロ1章3節~4節

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 

 「私たちは、父なる神と、主イエスを知ることによって、尊い大いなる約束を頂いた。」と言います。日本語で「知る」と言いますと、存在を認識している、知識として把握しているという意味として聞こえます。しかし聖書の「知る」は、人格的な交わりを意味するもの。「信じる」とか「愛する」という意味合いがあります。つまり「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者には、尊い大いなる約束が与えられていること。」ということです。

 その尊い大いなる約束の中身は何でしょうか。信仰者を「欲望がもたらすこの世の腐敗から免れさせ」「神のご性質にあずかる者とする」というもの。つまり「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」のです。

 「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」こと。これが、牧師ペテロが信仰者の心に刻み付けたかったこと。私たちが絶えず思い出すべきことでした。

 

 この「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」というメッセージは、信仰者にとっては当たり前のこと。よく知っていること。ペテロも、「あなたがたはこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っている」と言いながら、それでも、このメッセージをいつも思い起こすようにと言います。何故なのか。

 このメッセージを思い起こしながら生きるというのは、メッセージの実現へ向けて自分も取り組むことだからです。神様が私を造りかえるのだから、私は好きなように生きるというのではありません。このメッセージの実現に向けて、自分自身も取り組んでいくことだと教えられます。

 Ⅱペテロ1章5節~8節

だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。

 

 悪から遠ざかりキリストに似る者へと変えられていく。この約束のいきつくところは、愛する者となるということでした。罪の中で自分中心にしか生きられなかった者、周りの人を傷つけ、自分を傷つけてしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へ変えられていく。そして、あなた自身、あらゆる熱意をかけて自分が変わることに取り組みなさいと迫られます。イエス様がいのちをかけて、私を造り変える取り組みをされている。そうであれば、私自身もあらゆる熱意を傾けて、取り組まなければならないと教えられるのです。

 

 「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」というメッセージを信仰者の心に刻みつけ、信仰者があらゆる熱意をもってこのメッセージに生きるように励ますこと。これが、牧師としても、手紙を書く上でもペテロが大事にしたことです。

 いかがでしょうか。この聖書の約束、聖書の中心的なメッセージを、私たちはどれだけ意識して生きているでしょうか。これまでの人生で、自分が熱意を傾けて取り組んできたことは何だったでしょうか。神を愛し、隣人を愛することを、どれだけ大切にしてきたでしょうか。

 

 このように、ペテロは「表面」としては私たちに与えられた約束の素晴らしさと、私たちが取り組むべき事柄を記しますが、「裏面」としてはそのメッセージを知りながら従わないことの愚かさ、メッセージを正しく伝えない者への裁きを記します。

 聖書の教えを知っていながら、自分の取り組むべきことに取り組まない者は「霊的に盲目で、罪がきよめられたことを忘れてしまった者、近視眼的になっている者」(1章9節)とか、「『犬は自分の吐いた物に戻る』とか『豚は身を洗って、また泥の中に転がる』ということわざのとおり(2章22節)と言います。このような愚かな状態にならないように。くれぐれも、聖書のメッセージを聞いて終わりとしないように。自分自身、実現へと取り組むようにと励ましています。

 

 聖書の教えを正しく教えない者については、多くの言葉を割いて注意がなされます。

 Ⅱペテロ2章1節~3節

しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。

 

 かつて神の民の中にも偽預言者が出たのと同様に、偽教師が現れると言います。現れるかもしれないではなく、現れると断言されています。くれぐれも気を付けるように。皆様には、私のことも確認して頂く必要があります。私自身が偽教師となっていないか。聖書の教えを曲げていないか。もしおかしなことがあれば、是非とも注意、勧告して頂く必要があります。

 

 ペテロが大事にしていたメッセージは、「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」こと、信仰者は自分自身も変えられる歩みに取り組むことでした。それでは偽教師はどのように言うのか。(様々な、誤った教えがあると思いますが)特にペテロが注意するように挙げているのは次のことです。

 Ⅱペテロ3章3節~4節

「まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」

 

 ペテロが挙げる偽教師の特徴は、キリストの再臨の否定。それは神の裁きの否定であり、だからこそ、放縦の勧め、欲望のままに生きる勧めとなる。それが、どれ程聖書の教えから外れ、神様の思いから外れているのか。キリストの再臨がない、あるいは遅れていると思っているのは、次のような神様の願いがあるからとまとめられています。

 Ⅱペテロ3章9節

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

 以上、ペテロの手紙第二でした。牧師であるペテロから私への遺言説教。「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛するあなたは、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」あなたはあらゆる熱意をもって自分自身が変えられる取り組みをするように。このメッセージを表からも裏からも、これでもか、これでもかと畳みかける内容。このメッセージを届けたいと願うペテロの情熱を覚えながら、皆でこの手紙を読み受け取りたいと思います。

 

 最後に一つのことを確認して終わりにいたします。ペテロは「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛するあなたは、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」ことを伝えると同時に、信仰者はあらゆる熱意をもって、自分もそのことに取り組むように教えていました。皆様は、そのように言われて、具体的に何をするでしょうか。「悪から遠ざかり、キリストに似る」ことを、私たちは具体的にはどうしたら実現できるのでしょうか。悪に走ろうとする時に自分を打ち叩けば良いのでしょうか。キリストに似るということが、自分の力で達成されるものなのでしょうか。あらゆる熱意をもって取り組むようにと言われて、何をすれば良いのでしょうか。

 「悪から遠ざかり、キリストに似る」ために、具体的に私たちは何をしたら良いのか。その一つの答えが、この手紙の目的が記された箇所に出てきます。

 Ⅱペテロ3章1節~2節

愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。

 

 ペテロがこの手紙を書いた目的。それは、「聖なる預言者たちによって語られたみことばと、主であり救い主である方の命令」を思い出させること。つまり信仰者が、神の言葉、聖書の言葉に向き合うようにすること。そのために、この手紙を書いたと言います。そして、これこそ、私たちが悪から離れ、キリストに似る者となるために出来ることでしょう。

 聖書のメッセージを意識し、覚え続けるためにも、キリストに似る者となる歩みをするためにも、たえず神の言葉に向き合うこと、聖書に向き合うことに私たち皆で取り組みたいと思います。

2020年8月23日日曜日

「本当の死と、本当の命に生きること 〜計り知れない神の大きな恵み〜」エペソ2:1–10

 .イントロ

皆さんおはようございます。本日はエペソ書2章から説教をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

私自身が神の救いである「福音」に出会ったのは1999年であり、2000年4月にクリスチャンになりました。それ以前の私は、家がクリスチャンホームではなかった影響もあり、神の前における罪という問題について、ほとんど無自覚の人生を送っていました。とはいえ、人間の人生は毎日楽しいだけの快楽主義や物質主義だけでは成り立たないし、幼少期に父との関係が難しかった事もあり、人間の心に大きな闇があることは分かりましたし、日常の人間関係においても、望んでもいない形で人を傷つけてしまう事があったり、私たち人間の心の中に大きな問題(今思えばそれは罪の問題なのですが)がある事はひしひしと感じていました。エペソ2章にはその私たちの神様の前における罪の深刻さと、そこから一方的な恵みによって救い出される神のあわれみ・愛の大きさがよく描かれています。

 

.私たちの罪深い本性(1–3節)

エペソ2章1節〜3節

1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、

2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

1つ質問をさせて頂きます。「今、私たちの心はきれいでしょうか?」 人が美しい景色や、素晴らしい芸術作品を見ると「心が洗われる」と言います。確かに本質的に良いもの、素晴らしい被造物である自然などに触れて私たちの心はいやされます。先日、伊勢志摩方面に行った際にその美しい自然に心が清々しくなりました。私たちの心は、一瞬良いものに触れて、心が穏やかに広くなる事もありますが、しかし、またすぐに現実の生活の中での問題やストレスによって、いらいらがやってきます。そして、悪意や、裁く思い、いらだち、党派心、時にはいたずらに自分を責める思いなどが私たちの心を支配してしまいます。まるで、泉のように悪い思いが湧いてきますから、私たちの心は少し洗った程度ではどうにもなりません。聖書では、このような私たちの状態を「罪の中に死んでいた」と表現しています。注目すべき点は“死んでいた”というところです。これは体が死んでしまっているのではなく、神様との関係に死んでいる、“霊的に死んでいる”ということです。“死んでいる”とはどういうことでしょう?

「何も感じない。」 死んでしまうと、健康状態が良いとか悪いとか何も感じなくなります。当然、罪に対する感覚もマヒします。そもそも神様が何故自分にとって必要であるのかすらも自覚できなくなります。

さらに、最も大きな問題は、「自分自身では治療不可能」ということです。病気や、弱っているという事であれば、自分の努力や治療次第でいくらか改善出来るかもしれません。ところが、“死んでいる”ということは、「神様にしか、いやすことが出来ない」という事なのです。聖書の中で、“死”とは存在の消滅ではなく、「離れること」という意味です。体の死、地上での死は体から魂が離れることを意味していて、ここで言っている「霊的死」とは、私たちの心が全く神様から離れてしまうことです。命の源、ほんとうに良いお方である神様から離れてしまい、私たちの心は罪の泥沼に沈んでいたというのです。そして、「罪」に基づく悪いものが私たちの心の中から、泉のように次々とあふれて来たのです。この状態はやがて私たちに、決定的な永遠の死をもたらすものです。それでは、一体いつから私たちの心は死んでしまい、罪の奴隷となってしまったのでしょうか?

 

それは、創世記3章にあるように、エデンにおいて最初の人であるアダムとエバがサタンにそそのかされて世界に罪が入ってしまってからです。彼ら罪人の子孫である私たちは生まれつき、この罪の性質が備わっていると言います。現在、世界中の人が罪を持ち、このサタンの影響下にあると言います。そして、その様な状態の人たちは、「自分の肉の欲の中に生き」「肉と心の望むままを行い」とあります。私たちの「心」は罪により完全に腐敗しているために、ガラテヤ5:20–21の悪徳リストにある様な、「敵意、争い、そねみ(ねたみとほぼ同じ意味)、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」などが次々と私たちの「心」から湧き出てくるのです。

 

今日の箇所によれば、私たちは「不従順の子ら」と表現され、ほんとうに良いお方である神様から離れてしまった私たちは、生まれながらに非常に自己中心的なものであると言えます。小さな子どもを育てていてもその事は良くわかります。お友達や兄弟姉妹と、お気に入りのおもちゃを分け合うこと、譲り合うこと、嫌な事をする相手に手を出さないで優しく伝えること などは教えても自然にはなかなか出来ません(たまに上手く出来ますが、その時はしっかり褒める様にしています)。逆に、他人の物を取ってしまったり、相手を押しのけたり、叩いたり そう言うことは教えなくてもすぐするようになりますし、ちょっと大きくなれば、親に反抗もしたり、うそやごまかしもします。やはり“小さくても立派な罪人だねと妻と私は冗談交じりに話しています。子供は純粋だと言いますが、だからこそ若いうちに信仰を伝えることは何よりも大切だと思っています。

 

罪には罰が伴います。「私たちもみな・・・生まれながら神の怒りを受けるべき子ら」(「〜の子」は「~に属する、~の性質を受け継ぐ者」という意味があります)であったと言われています。神様は愛のお方であると同時に、完全に聖く正しい方であり正しく裁かれるお方です。「罪」に対しては「有罪」とせざるを得ないのです。裁判官やスポーツの審判が、適正に裁かなければ、社会やスポーツの試合が成り立たないのと同じです。まことに神様は赦しに富み、恵み深くあわれみ深いお方ですが罪について見て見ぬ振りをして、あいまいにする事は出来ません。神様の怒りとは、人間の憤りを含む個人的感情とは異なり、純粋に罪を憎む「罪に対する怒り」です。そして、この怒りには非常に厳しい面があり、ローマ623に「罪の報酬は死です」とあります。罪の結果として私たちが刈り取る報酬は「死」なのです。そして私たち人間に罪の無い完全に正しい人は1人もいないと聖書は伝えています(ローマ311)。

 

(まとめ) 私たちの根本的な問題は“神様の前での死(霊的死)”であり、それは全人類に共通する深刻な問題です。私たちの状態は“罪に死んでいたもの(自力では救済不可能)”であり、本来ならば、生まれながらに罪の報いとして神の怒りを受けるべき者であったというのです。

 


 

.ただ、恵みによる救い(4–10節)

エペソ2章4節〜10節

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました

7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。

8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

 

  救われた恵みを土台として生きる

「しかし」と、4節から文章の流れが大きく転換します。主語が「あなたがた」「私たち」から「あわれみ豊かな神」と変わっており、救いはいつも神の側からの、神を主語とした働きです。Ⅰヨハネ4:10に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・」とある通りです。まず神が、罪の中に死んでいた私たちに「変革」と「救い」を与えて下さいました。この事は、私たちの人生に決定的な影響をもたらします。神様の側の善意、あわれみがなければ、私たちはいまだに“罪の中に死んだ者”として、日々罪の泥沼の中に生きることしか出来ずにいたのです。しかし、今、私たちはキリスト・イエスと共に、“ほんとうのいのち”に生きることが出来る様になったのです。私たちの人生は恵みによって180°転換し、神を愛し、隣人たちを愛する人生へと変えられました。ですから、この「神の恵み」を土台にして生きていく事がとても大切です。たとえ誰かが問題の行動を起こしていたとしても、安易に裁いたり攻撃したりすることをせず、忍耐深く、その人の悔い改めのために祈るのは、私たち自身もまた、神の目から見れば、ただ神の愛と恵みによって、絶望的なところから救われた者だからです。

 

  すでに完了している救いと、聖霊による聖化

5節の救われたという言葉は、原語のギリシャ語では動詞として完了形が用いられ、「すでに救われて今その状態にある」という意味です。救いとは、私たちの救いが完成して将来天国に行く事でもありますが(その意味では完成途上です)、同時に、イエス様の十字架の贖いは完全なものであり、今もうすでに神様とつながり新しいいのちを得ているという事でもあります。私たちが、すでに救われて新しいいのちを得ている という聖書の宣言は、私たちにとり大きな励ましです。私たちは、神を信じクリスチャンとなり教会生活を始めた後でさえ、時に、罪の泥沼に苦しみ、自分の罪深さにがっかりしたり、信仰が後退しているのではと感じてしまうことさえあると聞きます。私自身も罪の残滓(ざんし;残りかす)に悩まされる時は度々あります。しかし、神があなたを救われた働きはもう完了しているというのです。恵みによる救いとは、私たちの力ではなく、神様の力で行われ、完成へと至るものだからです(ウェストミンスター信仰告白 第18-4「恵みと救いの確信について」参照)。とはいえ、私たちには救われた後もずっと「中身の変化」が必要です。私たちの立場は完全に変化して死からいのちに移されました。一方で中身においては、毎日、主イエスに似た者へと変えられていく過程があります。そのプロセスは私たちの地上の人生が終わるまで続きます。「聖化」の歩みです。その聖化のプロセスを歩むのは私たち自身ですが、その上で大切なのはやはり「恵み」です。私たちの心を内側から少しづつ変えてくださるのは、ただ聖霊による、つまり神の力によるからです。ですから、今の状態がたとえどの様であったとしても、ただ働いてくださる聖霊の力にすがり期待をしていきましょう。恵みの中で神に近づいて行くプロセスを、今も私たちは生きているのです。

 

  恵みのゆえに、信仰によって

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われた」とあります。神の恵みによって、主イエスを信じる信仰を通して救われたというのです。「信仰によって」とは「信仰を通して」という意味です(ギリシャ語前置詞;ディア)。神様の恵みを大きな水源だとすると、信仰は水道管の様なものです。宗教的儀式でも善い行いでもなく、ただ救い主イエス・キリストへの信仰という道を通して私たちは救われます。とはいえ、この信じる心もまた、神様が私たちに与えてくださるものです。

 

 そして、「恵みによる救い」ということが強調され、救いは神様からの賜物=プレゼントであるということが言われます。「恵み」とは、ふさわしく無いものに与えられる善意です。私たちの何か善い行いに対する報酬のようなものではありません。確かに私たちの日常生活では、労働とそれに伴う報酬の原則を知る事は大切です。大人になれば多くの場合、労働と報酬で私たちの社会生活の基礎が成り立っているからです。しかし、そんな私たちも誕生日やクリスマスのプレゼントは報酬以上に本当に嬉しいものです。プレゼントには自分の存在価値を無条件で肯定する意味があるからです。そして、何よりも神様からの最高の賜物は「救い」なのです。これだけは、私たちはどんなに努力しても、人間の力では得ることが出来ませんでした。「救い」は決して私たち自身では稼ぐことの出来ないものです。9節で、「行いによるのではなく、誰も誇ることが出来ない」と念押しされています。

 

(適用)まことにふさわしく無いものに与えられた、神様からの無限の賜物。そこに私たちの信仰の原動力、感謝の原動力、喜びの原動力があります。たとえ私たちが相応しい者であったとしてすら、神が与える救いとは絶大なものです。私たちの歩みを死から命に移すものであり、永遠の命を保証するものです。しかし、それが、到底ふさわしく無い、罪深いこの私に与えられたものだったとすればどうでしょうか? アメージング・グレイス「驚くばかりの」という賛美歌がありますが、神様の恵みとは私たちにとってほんとうに信じがたい程に豊かな、驚くべきものなのです。

 神は本来、それをする必要が無かったにもかかわらず、ただ愛とあわれみのゆえに、本当に豊かな愛、一人子を与えるほどの愛を私たちに示してくださいました。そして、10節にある「良い行いに歩む」人生を私たちに与えて下さいました。今一度私たちは、この神の計り知れない大きな恵みに、ただただひざまずき、この神の恵みを証しするものとして、今週も神様と共に与えられた場所で、キリストに似た者へと造り変えられつつ歩んでいきましょう。

2020年8月16日日曜日

一書説教(60)「ペテロの手紙第一~永遠の栄光の中に~」Ⅰペテロ5:10

 

 聖書の中には出てこなく、聖書が記されて後のクリスチャンがつけたあだ名ですが、十二弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれます。ガリラヤ湖の漁師、あまりの気性の粗さにイエス様から「雷の子」(ボアネルゲ)とあだ名が付けられた人物。福音書や使徒の働きを読む限り、特別に愛の行動をとったことが記されているわけでもない。しかし、聖書を読むクリスチャンたちは、ヨハネのことを「愛の使徒」と呼びます。何故なのか。それは、ヨハネが記した手紙が愛について多く記しているからです。著作によって「愛の使徒」とあだ名が付けられました。同様に、パウロはその著作によって「信仰の使徒」と呼ばれ、ペテロはその著作によって「希望の使徒」と呼ばれます。つまりペテロの手紙は希望について書かれている書ということです。

 私たちが普段「希望」という言葉を使う時、「願い」という意味で使います。そうなるか分からないけど、実現したら嬉しいと思うこと。希望が叶う、希望通りになるというのは、願いが実現したということです。しかし聖書にある希望は、これから必ず起こることを知り生きる力を得ることです。今はそうではないけれども、これから必ず起こることを知っているから、それに向かって喜んで生きることが出来る。これが、聖書が教える希望を持って生きるということです。

 ペテロの手紙は希望の書。それでは、ペテロはどのようなことが必ず実現すると言うのでしょうか。何を知っていれば、私たちは生きる力を得ることが出来るのでしょうか。私たちはどのような希望をもって生きるように教えられているのか。皆で確認していきたいと思います。

六十六巻からなる聖書のうち、一つの書を丸ごと扱う一書説教。今日は通算六十回目、新約篇の二十一回目、ペテロの手紙第一となります。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 

 これまで一書説教で確認してきましたように、新約聖書の手紙と言っても色々な種類があります。一つの教会に宛てた手紙、複数の教会で回覧されることを想定した手紙、個人へ宛てた手紙。感謝、励ましを記したものから、叱責、注意が中心の手紙、神学書、説教集のような手紙もありました。今日注目するペテロの手紙はどのようなものなのか。次のように始まります。

 Ⅰペテロ1章1節~2節

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 

 ペテロから、様々な地域にいるキリスト者へ。個人宛ではない、一つの教会宛てでもない。幅広く、多くの人を対象とした手紙。そのため、一つの地域に固有なこと扱うのではなく、一般的、普遍的な内容が期待される始まり方です。しかし、わざわざ地域を挙げていますので、ペテロ自身は送り先の相手を具体的に考えながら記したものでしょう。

 

 今回一書説教の準備にあたり、私はこの冒頭の挨拶に手紙の中心的なテーマが込められていると受け取りました。

ペテロはここで、手紙の受け取り手のことを「選ばれた人たち」「御霊による聖別を受ける者たち」「キリストの血の注ぎかけを受ける者たち」と呼びます。キリストを信じるあなたは、神様から選ばれ、特別な恵みを受け取っている者であると確認します。

「神様から選ばれ、特別な恵みを受け取る。」それは、さぞや良い人生、安楽、安心、人から羨ましがられるような歩みとなるのではないかと思うところ。しかしペテロは、その選ばれた人たちは、散らされ、寄留している者たちだとも言います。神様から選ばれ、特別な恵みを受け取るというのは、必ずしも地上での歩みが思い通りになるということではない。むしろ散らされ、寄留する者として生きる、困難、苦難があると確認します。

何故、キリストを信じる者、神に選ばれ特別な恵みを受ける者が、困難、苦難を味わうのか。そのことを通して、「キリストに従う者となる」から。困難、苦難を味わうことで、キリスト者はキリストに似る者へと変えられていく。いや、困難、苦難を味わうこと自体、キリストに従う歩みなのだと確認するのです。

 

 手紙の冒頭、挨拶に込められた三つのこと。キリストを信じる者は「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者であること」、「その歩みには苦しみがあること」、「苦しみを通して、造り変えられる者であること」。この三つのことが、繰り返し語られるのがペテロの第一の手紙となります。今日はこの三つの視点に沿って、手紙を概観していきます。

 

 一つ目の視点、キリストを信じる者は、「神様から選ばれた者、特別な恵みが与えられた者」であるというテーマは、様々な言葉で言い換えられ、神様から選ばれるとはどういうことか、特別な恵みとはどのようなものか、語られます。

 「神様から選ばれた者、特別な恵みが与えられた者」とは「私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて下さる」(1章3節)こと。「朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにして下さる」(1章4節)こと。「イエスを直接見てはいないけれども信じ、愛し、喜び者とされた」(1章8節)こと。「たましいの救いを得た」(1章9節)こと。「先祖伝来のむなしい生き方から救い出された」(1章18節)こと。「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民となった」(2章9節)こと。「あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受ける者となった」(2章10節)こと。などなど、神様から選ばれ、特別な恵みを頂くということがどれ程凄いことなのか、手を変え品を変え、これでもかこれでもかと語るペテロ。私たちも、この手紙を通して、神様からどれ程大きな恵みを頂いているのか再確認したいと思います。

 

 このように神の選びと特別な恵みについて、多く語るペテロですが、選びの目的は何なのか。特別な恵みを受ける者は結局のところどうなるのか。それは次の箇所にまとめられていると思います。

 Ⅰペテロ2章21節~25節

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

 

 自分のなりたいような人になれるとしたら、自分の生きたいように生きることが出来るとしたら。皆様は、どのような人になり、どのような人生を送りたいと思うでしょうか。ここに記されるイエス様の姿のようになりたいと思うでしょうか。自分をののしる相手がいた場合、徹底的に反撃する道と、ののしり返さない道と、どちらでも選べるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。自分の願い通りに出来る道と、神様の願う道に進むことと、どちらでも選べるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。

 キリストを模範とする生き方は、たとえ横暴な王や主人や夫に対する時でも、「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福するように」(2章13節~3章16節)と言います。ペテロは、キリストを信じる者は神に選ばれた者、特別な恵みを受ける者と言いましたが、その特別な恵みの中心にあるのは、このキリストの姿に私たちが変えられていくことなのです。そうだとしたら、この神様の選び、この特別な恵みを、私は喜ぶことが出来るのか。心さぐられるところです。

 

 二つ目の視点、キリストを信じる者の歩みには苦しみがあること。このテーマもペテロは繰り返し語ります。

 Ⅰペテロ2章11節

愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 

肉の欲。考えてみれば人生は欲望だらけ。欲望の嵐。私たちの人生は、絶えず欲望がつきまとうもの。少年は食欲。青年は色欲。壮年は物欲。老年は利欲。欲望の塊である私たちは、次々に罪に引きずり込まれる。毎日、欲望に引っ張られ、罪に引きずり込まれていると言っても言いすぎではないでしょう。神様のために、神の栄光のためにと願い、生きているはずが、いつのまにか私の欲望をいかに叶えるのかにやっきになる。

 ここにキリスト者ならではの苦しみがあります。信仰がなければ何も考えない、経験しない、自分の欲望との戦いの苦しみ。神の民らしく生きたいと願う思いと、肉の欲に従いたいと願う葛藤の苦しみ。

 

 さらに、自分の欲望との戦いは、周りの人からの迫害にもつながると言います。

 Ⅰペテロ4章3節~5節

あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。

 

 信仰を持ち、正しく生きることで中傷、嘲笑されることがある。また周りの人からの迫害を恐れて、この世と調子を合わせることがある。ここに信仰者ならではの葛藤や苦しみがあります。

 神様から選ばれ、特別な恵みを頂く者。キリストに似る者となるように選ばれた者。それにも関わらず、全くそうは生きていない私、生きることが出来ない私。しかし、そのような自分自身、そのような状況を苦しむことこそ信仰者の歩みであるとペテロは言うのです。何の苦しみもなく、何の葛藤もなく、キリストに似る者となるのではない。キリストに似る者へ変えられていくのには、様々な苦難があると確認するのです。

 

 三つ目の視点は、苦しみを通して私たちは造り変えられる者であること。このこともまた、ペテロは繰り返し語ります。

 Ⅰペテロ4章12節~13節

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

 

 神様は様々な方法で恵みを下さり、様々な方法で私たちをキリストに似る者へと変えて下さいます。しかしペテロがこの書で特に強調するのは「試練」です。神様は試練を通して、私たちから不純なものを取り除いて下さる、精錬して下さると言います。(Ⅰペテロ1章7節) 

神様が世界を支配し、私を愛している。それにもかかわらず、何故このような苦難、困難が起こるのかと困惑することがあります。こんな試練があるとは、神様は私を愛していないのではないかと戸惑うことがあります。しかし、戸惑う必要はないというのが、ペテロの励ましの言葉です。

聖書の他の箇所にある、「主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。」(ヘブル12章5節~6節)とか、「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(Ⅱコリント4章17節)という言葉が思い出されるところ。

 

 聖書の中には試練や挫折を通して練られた人物が多くいます。何よりペテロが繰り返し繰り返し、試練に合い、挫折を経験した人でした。

キリストが十字架にかかることを告げられた時、ペテロはイエス様に対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」といさめ、イエス様から「下がれ、サタン。」と言われました。(マタイ16章)死ぬことになっても裏切らないと言ったその夜、イエス様を三回知らないと言いました。(マタイ26章)

試練、挫折を通して、その都度、自分の中にある高慢な思い、自分の力に頼る思いを思い知らされ、その自分を愛し、造り変えようとする神様の恵み、イエス様の愛を知る経験をしたペテロ。そのペテロの言葉として、苦しみを通して私たちは造り変えられると教えられることに重みを感じます。

 

 以上、三つの視点でペテロの手紙第一を概観しました。キリストを信じる者は「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者であること」、「その歩みには苦しみがあること」、「苦しみを通して、造り変えられる者であること」。

この三つの視点を、ペテロは手紙の最後で次のようにまとめています。

 Ⅰペテロ5章10節

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 

 「神様から選ばれた者、特別な恵みを与えられた者である」というのは、「永遠の栄光の中に招き入れられたこと。」言葉で表現することが難しい、考えられない程の大きな恵みを頂いているということ。キリスト者の歩みには苦しみがある。しかし、それはずっと続く苦しみでも耐えられない苦しみでもなく、「しばらく」の苦しみであること。「造り変えられる」とは、「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者」として下さる。完全に、キリストに似る者となる日が来るということ。

 特に大事なのは、「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」にある、「してくださいます」という部分です。キリストを信じる私たちは、キリストに似る者に選ばれた者。しかし、私たちはキリストに似る者になれない。なる力がない。努力する力もない。その私たちを、キリストに似る者へと変えるのは、神様がして下さること。神様が責任をもって為して下さる。これが、ペテロが掲げる希望です。そうなったら良いというのではなく、必ずそうなるというもの。

 是非とも、ご自身でこの手紙を読んで頂き、自分にとってこの内容が希望であるか。味わい、確認して頂きたいと思います。

 

 神様がするとなれば、それはもう必ずなります。必ずなる、絶対なります。問題となるのは、私たちがそれをどのように受け止めるかです。もし私たちが、キリストに似ることを避けようとするならば、それは本当に苦しい歩みとなります。

 神様がして下さる私に対する取り組みを、私自身が喜ぶ。神様が日々私を造り変えていて下さり、やがての日には完全にキリストに似る者として下さることを喜ぶ。ペテロが示した希望を、私の希望とする歩みを皆で送りたいと思います。

2020年8月9日日曜日

「神以上に大切なもの、もっていますか」創世記22:1~14

 私たち人間は皆何かのために生きています。それに向かって一生懸命に生きる目標、それに希望を置いて生きるビジョンを誰もが持っているか、持ちたいと願っているのです。その何かは人によって異ります。異性から愛されることを願いとして生きる人がいます。経済的安定を求めて懸命に働く人がいます。大学合格や仕事の成功を求めて人一倍努力を重ねる人もいます。社会的に認められ、立派な肩書を手に入れるため、日々精進する人もいるのです。

異性から愛されたいと思うことも、経済的安定を求めることも、大学合格や仕事の成功を願うことも、社会的に認められたいと欲することも、何ら否定されるべきことではありません。それ自体は自然なことであり、良いことなのです。

しかし、聖書はそれらが私たちにとって偶像にならぬよう警告しています。人間には神ではないものに神の様に仕える性質があると戒めているのです。

 

ローマ1:25「彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。」

 

私たちキリスト者は仏像を拝んだり、神棚に向かって手を合わせることをしません。死者を神や仏として祭ることもしません。ただ一人世界の造り主の神を礼拝するのです。しかし、その様な目に見える偶像を拝まずとも、私たちの心の中には神の様に大切にしているもの、即ち偶像が存在すると聖書は警告しているのです。

その一例として今朝取り上げるのは旧約聖書に登場するイスラエル民族の先祖、アブラハムの人生に起こった試練です。このアブラハムと言う人物、ユダヤ人の間で信仰の父として知られ、尊敬されていました。その生涯はまさに信仰の父と呼ばれるにふさわしいものだったのです。

聖書によると、75歳の時アブラハムは神に呼ばれ、故郷を旅立っています。

 

12:1~2「【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」

 

神がアブラハム(この時はアブラムと呼ばれていた)を大いなる国民とし、祝福し、その名を大いなるものとする。アブラハムは地上のすべての民族の祝福となる。神がアブラハムに与えた約束は素晴らしいものでした。しかし、神に従うため、彼は故郷を離れなければなりませんでした。慣れ親しんだ土地を離れ、安心して付き合える家族、友人と別れ、安定した生活をあきらめ、神が導く地へとアブラハムは旅立ったのです。

約束の地カナンに定着してからも、苦労は絶えませんでした。飢饉に襲われ、夫婦は危機に陥りました。甥のロトとの別れがあり、周辺部族との戦いもありました。しかし、最大の悩みは後継ぎの問題でした。「あなたを大いなる国民とする」と言われたにもかかわらず、アブラハムが求めても求めても、神が後継ぎを与えることはありませんでした。やがてアブラハムは年老い、妻のサラも不妊の体となる。子どもの誕生を願うことは、常識的に不可能な状況へと彼ら夫婦は追い込まれたのです。

その様に後継ぎの問題で悩み、葛藤し続けたこの夫婦に待望の男子が与えられたのは、アブラハム100歳の時でした。そしてこの期間忍耐し、待ち続け、多くを犠牲にしてきたアブラハムの信仰はよく練られたのです。使徒パウロはその信仰を称賛し、こう語ります。

 

ローマ4:18~22「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。」

 

この間後継ぎ誕生を待ちきれず、アブラハムは何度か間違った行動に出たことがあります。後継ぎをあきらめかけたこともありました。しかし、彼の心から神に対する信頼が消え去ることはなかったと聖書は言うのです。そして、今朝私たちが見るのは喜びの後継ぎ誕生から数年後のこととなります。

 

22:1~2「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」」

 

聖書には「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」とあります。何故この時アブラハムに試練が与えられたのでしょうか。

これはイサクと名付けられた男の子が12歳頃の出来事とも言われます。イサク誕生以来、アブラハムとサラはイサクを真ん中にして、親子三人平穏無事な歳月を積み重ねてきました。アブラハムは待望の我が子に愛情を注ぎ、その健やかな成長こそ生き甲斐だったのです。

また、当時は現代とは違い、人々は個人的繁栄や成功よりも、自分が属する家族の繁栄や成功に価値を置いていました。家族の希望は後継ぎに託され、家系が絶えないようにと、殆どの財産を相続するのは後継の長男と決まっていました。ですからイサクの成長はアブラハム家の存続と繁栄を保証するものだったのです。後継ぎイサクの存在は愛情の対象というにとどまらず、アブラハムにとって人生の拠り所でもあったのです。

しかし、神はそんなアブラハムの中に、神以上に我が子を愛し、大切にする思いを見ていたのです。神だけにしか与えることのできない人生の意味や幸福を我が子の成長の中に感じているアブラハムの問題を見ておられたのです。このままでは、アブラハムにとってイサクが神以上に大切なもの、即ち偶像と化す危険があると考え、神はイサクをささげるよう命じたのです。

けれど、この試練は尋常なものではありませんでした。神はモリヤの地にある山の上でイサクを全焼のいけにえとしてささげよと命じたのです。アブラハムにとっては「まさか」としか思えない命令だったでしょう。イサクは百歳にして与えられた嫡子。アブラハムに取って最愛の宝。そもそも神ご自身が格別に約束して賜った子どもでした。それを山の上で全焼のいけにえとせよとは、一体なぜ神がそんなことを命じるのか。アブラハムは思い悩んだに違いありません。

けれども、さすが信仰の父。翌朝アブラハムは神の示す山へと出かけて行ったのです。

 

22:3~6「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。」

 

アブラハムは全焼のささげものの意味については理解していました。旧約聖書には、後継ぎである長男(初子)についての命令が記されています。当時初子は家族を代表する存在でした。イスラエルの民は家族全員の罪を贖うために、代表である初子を犠牲として神にささげるよう命じられていたのです。勿論、直接初子の命が犠牲となったのではなく、贖い金か犠牲の動物をささげることで家族の罪は贖われ、人々は神に受け入れられたのです。

こうした命令を背景とすると、神がアブラハム家の罪を贖う者としてイサクをささげるよう命じ、アブラハムが正しく応答したことが分かります。ただそれにしても、疑問は残ります。神がいけにえとしてささげるよう命じたイサクが、どのようにして後継ぎとして生き残ることが出来るのか。神の命令と神の約束はどう調和するのか。神はこれについて沈黙しています。何の説明もしてはいないのです。

しかし、たとえそうであってもアブラハムは神に信頼しました。どの様にしてかは分からないけれど、神にささげたイサクを神が助けてくださり、イサクと共に家に帰ることが出来ると信じて神に従ったのです。6節「アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。」

けれども、少年であるイサクには父の思いが理解できませんでした。イサクは尋ねます。

 

22:7~9「イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。」

 

レンブラントの名画「アブラハムの犠牲」には、何も知らぬうちに父に縛られ、薪の上に乗せられたイサクがのけぞり、白い喉と腹を露にする生々しい姿と、その喉目がけて刀を振り下ろすアブラハムの姿が描かれています。そして、聖書はアブラハムが手に握る刀が一閃したその瞬間、御使いが呼びかけたと言うのです。

 

22:10~14「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。」

 

この出来事は、アブラハムが神を第一に愛するための試練でした。神は彼に告げています。「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」神を恐れるとは神を怖がることではありません。この世の何物よりも神を愛することです。神が大切な後継ぎを与えようと、大切な後継ぎを取り去ろうと、神に信頼し、神に従うことなのです。

果たして、私たちは神を畏れているでしょうか。この世の何物よりも神を愛しているでしょうか。神が良いものを与えてくれても、それを取り去っても、神に信頼し、神に従っているでしょうか。神は私たちの信仰を練り、私たちが真に神を畏れる者となるために、試練を与えるのです。

アブラハムがイサクと言う偶像をもっていたように、私たちも心に偶像となりうるものを持っているのです。ある人にとっては我が子が、ある人にとっては経済的な安定が、ある人にとっては仕事の成功が、ある人にとっては誰かに愛されることが、ある人にとっては社会で認められる存在になることが偶像なのです。

神は私たちが子供を愛することも、経済的な安定を求めて働くことも禁じてはいません。神は私たちが仕事の成功を求めることも、誰かに愛されたいと願うことも、社会で認められる存在になるため努力を重ねることも禁じてはいません。それら自体は良いことなのです。

神が禁じているのは私たちが神以上に子どもを愛し、神を抜きにして経済的安定を求めることです。私たちが神の栄光を表すことより仕事の成功を願い、神に愛される以上に誰かに愛されるのを求めることです。神に認められる以上に社会で認められる存在になるのを願い、それに捕らわれて生きることなのです。神は「あなたが大切に握りしめているもの、偶像を捨てよ、それをわたしに差し出せ」と命じているのです。

でも、どうしたら私たちは私たちの偶像を捨てることができるのでしょうか。アブラハムのために神が備えていた雄羊のささげものに注目したいと思うのです。結局アブラハムの家族の罪を贖ったのはイサクではありませんでした。神は彼らの罪を贖うために雄羊の犠牲を備えていたのです。この雄羊の犠牲はイエス・キリストの救いを示す予表です。神は二千年前モリヤの山、エルサレムの丘にイエスを送り、愛するひとり子のいのちを十字架につけ、私たちの罪を贖い、ご自身の愛を示されたのです。

この主イエスの十字架に示された神の愛が私たちを偶像から自由にするのです。神は富んでいても貧しくても、私たちを愛しています。この世で成功しても失敗しても、神の私たちに対する愛は変わらないのです。社会に認められなくても誰かに愛されなくても、神は私たちを大切な存在と認め、受け入れ、愛してくださるのです。神の愛を受け取る時、私たちは私たちを虜にしている偶像を捨て去ることができるのです。この神の愛に安らぐ時、私たちは人生に起こるどんな試練にも立ち向かうことが出来るのです。

私たちの生涯は偶像との戦いです。悔い改めの連続です。私たちは自らの心にある偶像を捨て、神を畏れる者として歩んでゆきたいと思うのです。