長らく取り組んできました一書説教、今日は通算六十一回目となります。八年目にして、十一分の十が終わり残りは六書。いよいよ大詰め、終わりが見えてきました。今日、皆様とともに確認するのはペテロの手紙第二となります。ペテロと言えば、十二弟子の中でも一際目立った人。本名はシモン、イエス様からペテロと名前をもらいました。ガリラヤ湖で漁師をしていたところ、イエス様から直接「人間をとる漁師に」と声をかけられ従いました。記録されたものから受ける印象は、考えるより先に動き出す人、思慮深いというより行動派、冷静というより感情豊か。福音書と使徒の働きに、多くの活躍と同時に多くの失敗も記録されていて、キリストの一番弟子とも言える人物でありながら、信仰の英雄というより、身近な存在に感じられる人。このペテロが記した書は新約聖書に二つだけで、この第二の手紙が絶筆の書となります。
手紙の中でペテロは自分自身のことを次のように言っています。
Ⅱペテロ1章14節
「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」
「間もなくこの幕屋を脱ぎ去る」、つまり地上の生涯の終わりが間近であるとペテロは考えている。第二の手紙は死を間近に感じている最晩年のペテロが記した書。遺言の意味合いがある書。
またペテロは第一の手紙で試練と信仰について次のように記していました。
Ⅰペテロ1章6節~7節
「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」
聖書に記されているだけでも多くの試練を通らされたペテロ。記録されていないことも含めれば、一体どれだけの苦難を通り抜けたのだろうと思います。最晩年のペテロと言えば、練りに練られた信仰者と言えます。練りに練られたペテロは一体何を語るのか。天に召される前に、続く信仰者に何を伝えたかったのか。
そしてこの手紙は私たちに宛てて記されたものでした。
Ⅱペテロ1章1節~2節
「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」
新約聖書にある手紙には、教会宛て、個人宛のものが多いですが、この手紙は「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」に宛てられたもの。キリストを信じる全ての人へ。ある教会の問題、ある個人とのやりとりではないため、普遍的な内容の手紙と言えます。そして「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」と言えば、私たちも含まれるのです。普遍的な内容にして、私に宛てられた手紙。最晩年のペテロが、私に宛てて記した手紙。練りに練られた信仰の先輩から、後輩の私に宛てられた手紙。ペテロの遺言説教。私たち一同で心して読みたいと思います。
一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。
さて手紙を読むにあたって、ペテロについて一つ確認しておきたいことがあります。イエス様が十字架で死に復活された後、ガリラヤ湖で弟子たちに会われた場面がヨハネの福音書に収録されていますが、ここでイエス様がペテロに声をかける有名なやりとりがありました。
ヨハネ21章15節
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの子羊を飼いなさい。』」
「わたしを愛するか」と確認があり、「羊を牧しなさい」と使命を与える。この時、このやりとりが三回繰り返されました。十字架直前、イエスを知らないと三度言ったペテロに、三度イエスを愛していると告白する機会を与えられ、使命が確認される。他の弟子にはない、特別な取り扱いを受けたペテロ。イエス様から「わたしの羊を牧しなさい」と言われた人物です。それではペテロは何を大事なこととして牧会に励んだのでしょうか。牧師ペテロは、おもに何に力を注いだのでしょうか。
この手紙の中に、次のような言葉があります。
Ⅱペテロ1章12節~13節
「ですから、あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです。それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。」
「地上の幕屋にいる限り、なすべきだと思っている。」「地上での命がある限り、取り組むべきことがある。」と言います。牧師ペテロは、明確に自分が力を注ぐべき事柄があると言うのです。何か。「それを信仰者にいつも思い起こさせる」「それをキリスト者に思い起こさせて、奮い立たせること」と言います。そして、これは反対から見れば、私たち信仰者はいつも思い起こすべきことがあるということです。
それでは、ここで言われている「それ」とは何でしょうか。
Ⅱペテロ1章3節~4節
「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
「私たちは、父なる神と、主イエスを知ることによって、尊い大いなる約束を頂いた。」と言います。日本語で「知る」と言いますと、存在を認識している、知識として把握しているという意味として聞こえます。しかし聖書の「知る」は、人格的な交わりを意味するもの。「信じる」とか「愛する」という意味合いがあります。つまり「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者には、尊い大いなる約束が与えられていること。」ということです。
その尊い大いなる約束の中身は何でしょうか。信仰者を「欲望がもたらすこの世の腐敗から免れさせ」「神のご性質にあずかる者とする」というもの。つまり「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」のです。
「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」こと。これが、牧師ペテロが信仰者の心に刻み付けたかったこと。私たちが絶えず思い出すべきことでした。
この「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」というメッセージは、信仰者にとっては当たり前のこと。よく知っていること。ペテロも、「あなたがたはこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っている」と言いながら、それでも、このメッセージをいつも思い起こすようにと言います。何故なのか。
このメッセージを思い起こしながら生きるというのは、メッセージの実現へ向けて自分も取り組むことだからです。神様が私を造りかえるのだから、私は好きなように生きるというのではありません。このメッセージの実現に向けて、自分自身も取り組んでいくことだと教えられます。
Ⅱペテロ1章5節~8節
「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。」
悪から遠ざかりキリストに似る者へと変えられていく。この約束のいきつくところは、愛する者となるということでした。罪の中で自分中心にしか生きられなかった者、周りの人を傷つけ、自分を傷つけてしか生きられなかった者が、神を愛し隣人を愛する者へ変えられていく。そして、あなた自身、あらゆる熱意をかけて自分が変わることに取り組みなさいと迫られます。イエス様がいのちをかけて、私を造り変える取り組みをされている。そうであれば、私自身もあらゆる熱意を傾けて、取り組まなければならないと教えられるのです。
「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」というメッセージを信仰者の心に刻みつけ、信仰者があらゆる熱意をもってこのメッセージに生きるように励ますこと。これが、牧師としても、手紙を書く上でもペテロが大事にしたことです。
いかがでしょうか。この聖書の約束、聖書の中心的なメッセージを、私たちはどれだけ意識して生きているでしょうか。これまでの人生で、自分が熱意を傾けて取り組んできたことは何だったでしょうか。神を愛し、隣人を愛することを、どれだけ大切にしてきたでしょうか。
このように、ペテロは「表面」としては私たちに与えられた約束の素晴らしさと、私たちが取り組むべき事柄を記しますが、「裏面」としてはそのメッセージを知りながら従わないことの愚かさ、メッセージを正しく伝えない者への裁きを記します。
聖書の教えを知っていながら、自分の取り組むべきことに取り組まない者は「霊的に盲目で、罪がきよめられたことを忘れてしまった者、近視眼的になっている者」(1章9節)とか、「『犬は自分の吐いた物に戻る』とか『豚は身を洗って、また泥の中に転がる』ということわざのとおり(2章22節)と言います。このような愚かな状態にならないように。くれぐれも、聖書のメッセージを聞いて終わりとしないように。自分自身、実現へと取り組むようにと励ましています。
聖書の教えを正しく教えない者については、多くの言葉を割いて注意がなされます。
Ⅱペテロ2章1節~3節
「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。」
かつて神の民の中にも偽預言者が出たのと同様に、偽教師が現れると言います。現れるかもしれないではなく、現れると断言されています。くれぐれも気を付けるように。皆様には、私のことも確認して頂く必要があります。私自身が偽教師となっていないか。聖書の教えを曲げていないか。もしおかしなことがあれば、是非とも注意、勧告して頂く必要があります。
ペテロが大事にしていたメッセージは、「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛する者は、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」こと、信仰者は自分自身も変えられる歩みに取り組むことでした。それでは偽教師はどのように言うのか。(様々な、誤った教えがあると思いますが)特にペテロが注意するように挙げているのは次のことです。
Ⅱペテロ3章3節~4節
「まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」
ペテロが挙げる偽教師の特徴は、キリストの再臨の否定。それは神の裁きの否定であり、だからこそ、放縦の勧め、欲望のままに生きる勧めとなる。それが、どれ程聖書の教えから外れ、神様の思いから外れているのか。キリストの再臨がない、あるいは遅れていると思っているのは、次のような神様の願いがあるからとまとめられています。
Ⅱペテロ3章9節
「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
以上、ペテロの手紙第二でした。牧師であるペテロから私への遺言説教。「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛するあなたは、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」あなたはあらゆる熱意をもって自分自身が変えられる取り組みをするように。このメッセージを表からも裏からも、これでもか、これでもかと畳みかける内容。このメッセージを届けたいと願うペテロの情熱を覚えながら、皆でこの手紙を読み受け取りたいと思います。
最後に一つのことを確認して終わりにいたします。ペテロは「父なる神と主イエスを知り、信じ、愛するあなたは、悪から遠ざかり、キリストに似る者に変えられていく。」ことを伝えると同時に、信仰者はあらゆる熱意をもって、自分もそのことに取り組むように教えていました。皆様は、そのように言われて、具体的に何をするでしょうか。「悪から遠ざかり、キリストに似る」ことを、私たちは具体的にはどうしたら実現できるのでしょうか。悪に走ろうとする時に自分を打ち叩けば良いのでしょうか。キリストに似るということが、自分の力で達成されるものなのでしょうか。あらゆる熱意をもって取り組むようにと言われて、何をすれば良いのでしょうか。
「悪から遠ざかり、キリストに似る」ために、具体的に私たちは何をしたら良いのか。その一つの答えが、この手紙の目的が記された箇所に出てきます。
Ⅱペテロ3章1節~2節
「愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。」
ペテロがこの手紙を書いた目的。それは、「聖なる預言者たちによって語られたみことばと、主であり救い主である方の命令」を思い出させること。つまり信仰者が、神の言葉、聖書の言葉に向き合うようにすること。そのために、この手紙を書いたと言います。そして、これこそ、私たちが悪から離れ、キリストに似る者となるために出来ることでしょう。
聖書のメッセージを意識し、覚え続けるためにも、キリストに似る者となる歩みをするためにも、たえず神の言葉に向き合うこと、聖書に向き合うことに私たち皆で取り組みたいと思います。