2020年12月20日日曜日

燭火礼拝「明けない夜はない」ヨハネ1:3~5、ローマ5:8

 聖書はこの世界を闇と呼んでいます。神を無視して生きる人間の世界には、至る所に闇があるからです。圧政、争い、差別、貧困、家庭崩壊、いじめ、自殺…。この一年皆様はどんな闇が気になったでしょうか。様々な人々がこれらの問題を解決するために力を尽くしてきましたし、今も尽くしています。けれど、時代と共に闇は広がるばかり、深まるばかりという気がします。

そして、これらの問題の源に一人一人の人間の罪という心の闇が存在すると聖書は言うのです。この罪の問題は世界の始め、神と人間との平和な関係が壊れてしまった出来事に遡ると聖書は教えているのです。

世界の始め神が与えたエデンの園で、人類の先祖アダムとエバは幸せな生活を送っていました。ある日のこと、サタンが蛇の姿をとって現われエバを誘惑します。神に敵対するサタンは、彼らから神を信頼する心を奪い去ろうと、ただ一つ食べてはならないと神が命じた木、善悪の知識の木の実を口にするよう誘惑したのです。そして、最終的に彼らが心を決めた一言が「あなたがたは神のようになれる」とのことばでした。

 

創世記3:4~5「すると、蛇は女に言った。…それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」

 

サタンは間違った神のイメージを植え付けようとしています。「神が善悪の知識の木の実を禁じたのは、あなたが神のようになることを神が恐れているからだ」として、神のみ心を捻じ曲げました。「あなたが思う程、神はあなたを愛してはいない。だから、神は一番大切な善悪の知識の木の実を与えようとしないのだ」として、神の愛に疑いを抱かせました。「神が食べたら死ぬと言ったとしても、死ぬことはないのだから、遠慮せずに食べたらよい。」と語り、神に背かせたのです。そして、神のようになれると思ったその瞬間、彼らの目に禁断の木の実は途轍もなく魅力的なものに見えたというのです。

聖書が教える罪とは、人間が神のようになろうとすることです。人間が神なしで善悪を判断し、神なしで人生を生き、神なしで世界を管理しようとすることです。「人生のことも、世界のことも自分たちでやってゆけますから、神様、あなたは必要ありません」という考え方なのです。この時以来、神と人間との間にあった平和な関係は壊れてしまったのです。

ある人々は経済成長こそが人々を幸福にし、社会を平和にすると考えてきました。彼らにとっては経済成長が救い主なのです。イギリスにケインズという経済学者がいました。今も世界の国々の経済政策に大きな影響を与えている近代経済学の父と言われる人です。

今から100年程前、ケインズは予言しました。「産業が発達するペースから考えて、2030年には人々は一日3時間働くだけで暮らせるようになる。貧富の差は縮まり、飢える者はなく、多くの人が健康的な生活を楽しむことが出来るようになる。肉体労働や家事の殆どは機械かロボットが肩代わりし、人々は残りの時間を芸術、音楽、文化、哲学など、本当に重要なことに時間を費やすようになるだろう。」

しかし、現実はどうでしょうか。現代の社会はケインズの予測よりも10倍も豊かになりましたが、人々は物質的繁栄をこれまで以上に追及しています。労働時間も3時間はおろか、減少すらしていません。鬱病や過労に苦しむ人々も沢山います。社会全体の富は増えましたが、貧富の差は拡大しています。アメリカではわずか1%の富裕層が国全体の富の55%を所有し、経済格差、教育格差、医療格差が大きな問題となっています。自然破壊や飢餓は世界的な問題です。時代と共に豊かさの基準は高くなり、人々は満足を知らず、欲望はとどまることがありません。ある人は「ケインズは人間の中にある限りない欲望という罪を理解していなかったのではないか」と言っています。

また、ある人々は科学こそが人々に幸福をもたらし、社会を良くすると考えてきました。しかし、科学自体は良いものであり、良いものをもたらしてきたとしても、科学もまた救い主ではありません。それを用いる人間によって様々な悪がもたらされてきたのです。

カズオ・イシグロという日本生まれの、イギリス人作家がいます。一昨年ノーベル文学賞を受賞しました。カズオ・イシグロの代表作の一つに「私を離さないで」という作品がありますが、そこに描かれたのは近未来の社会です。主人公は外界から隔離された学校の生徒たちで、彼らは裕福な人間たちに臓器を提供すべく造られたクローン人間でした。子供たちがある年齢に達すると、教師は彼らに言います。「あなた方は一つの目的のためにこの世に生み出されてきました。将来は決定済みです。だから役に立たない夢や希望はもうやめなければなりません。」

他方心ある教師たちはクローン人間にも心があり、ちゃんとした教育を受ければ普通の人間と同じであることを示そうと音楽や絵の教育に励みますが、それを知った科学者によって学校は閉鎖されてしまうのです。未来に希望を抱くことを許されず、ただ繰り返し臓器を提供して死んでゆかねばならない。人間に利用されるべく定められたクローン人間の悲しみを描いている作品です。

富を貪る者と貧しさに喘ぐ者。利用する者と利用される者。経済活動も科学の営みも、それが神を無視した人間によって行われる時、社会を分断し悪をもたらしてきたし、これからももたらしてゆくのです。どれ程経済が成長し、多くの富が生み出されようとも、どれ程科学が発達しようとも、それを用いる人間の罪の問題が解決されない限り、この世界は決して良いものにはならない。そう聖書は教えているのです。

しかし、人間がいかに心の闇を見ようとはしないか。罪に支配された自分の心の闇を認めようとしない存在であるか。神はそれ良く知っておられました。だから、神は私たちの心の闇を照らす光を与えてくださったのです。

今から二千年前イエス・キリストがこの世界に誕生されました。イエスは神の御子ですから立派な宮殿の清潔なベッドを誕生の場所として選ぶこともできたはずです。しかし、イエスが選んだのは暗い家畜小屋の汚い飼い葉桶でした。何故なら、それが罪ある人間の心を示すシンボルだからです。それ以来、イエス・キリストは光として、私たちの心の闇を照らし続けているのです。

 

ヨハネ1:1~3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

ティム・ケラーという牧師は罪についてこう説明しています。「私たちが神を礼拝せず、この世にある良い物を礼拝すること、この世にある良い物で心を満たそうとすることである。」果たして、皆様は神以外の何を礼拝しているでしょうか。神以外の何物によって心を満たそうとしているでしょうか。ケラー牧師は、人間が礼拝し、心を満たそうとするものを三つ挙げています。第一に力と成功、第二に人に認められ、愛されること、第三に快楽です。

ところで、皆様はアマゾンを利用したことはあるでしょうか。私は本や音楽を買う時によく利用しますが、よくアマゾンからメッセージが送られてきます。「山崎様、あなたの好きな本を選んでみました」とか「今なら無料で使用できる、あなたにぴったりのサービスがあります」。そんなメッセージです。別にアマゾンが私に対して親切なわけではありません。彼らは私の欲望を刺激し、必要ではないかもしれない商品を買わせようとしているのです。彼らにとって私という人間は利益の対象でしかありません。

しかし、今世界中の人々の欲望を満たし、成長した巨大なIT企業アマゾンとかグーグルとかアップルという会社が世界の市場を独占する状態を規制しようと各国が動き始めています。彼らは自分達が手にした支配力を守るため、ライバルになりそうな会社を次々に買収したり、潰したりして価格を高く保ち、利益を独占してきたと言われます。結託して労働者の賃金を低く抑え、経営者が収入を貪ってきたと言われているのです。

勿論、努力して能力を高め、勤勉に仕事をし、その結果成功するなら素晴らしいことです。しかし、自分の力や成功を礼拝し、心を満たそうとし続けるなら問題が起こります。家庭にも、職場にも、教会にも、至る所にアマゾンの様な人間は存在するのです。妻を支配する夫、子供を支配する親。出世のために部下を利用する上司。権威を示したくて信徒をコントロールしようとする牧師。この様な人が恐れているのはライバルや敵と思える人々の存在なのです。

また、快楽で心を満たそうとする人々もいます。勿論、心も体も快適で心地良い状態を望むのは良いことです。私も温泉に入ったり、大好きなラーメンを仲間と食べたり、友人と一緒に山に登ったり。様々に喜べる時間を満喫しています。

しかし、快楽を礼拝し、常にそれで心を満たそうとするなら、私たちは大切なものを切り捨てることになるのです。快適で心地よい生活を保つため、貧しさに悩む人々の存在を知りながら、助けの手を差し伸ばすことをしないかもしれません。気の合う仲間とだけ交際すること好み、自分が苦労を負うことになる人間関係を避けているかもしれません。快楽を求める心に支配され、道徳や法律を破る人もいます。この様な人々が恐れるのは、何よりも自分にとって快適な生活、心地よい状態を失うことなのです。

人から認められ、愛されることも、すべての人が願うことでしょう。互いに認めあう友、互いに愛し合う人間関係は何物にも代え難いものと考える人は多いと思います。しかし、そうだとしも、いつでも、誰からも認められ、愛されるという人は稀でしょう。

親から良い子だと認められたくて、一生懸命勉強する子供がいます。男性から愛されたくて、整形する女性もいます。そうかと思えば、肩書を失い、職を失い、収入を失った男性が鬱病になったり、生きがいを感じられなくなったり、自殺することもあるのです。肩書も仕事も収入もない人間は誰にも認められないと考えるからです。

随分古い映画になりますが「ロッキー」という映画がありました。主人公のロッキーはランキングの外にいるボクサーで、気力を失い、体はぶよぶよ、引退しても誰にも惜しまれないようなボクサーです。そんなロッキーに世界チャンピオンとの対戦というチャンスが巡って来ます。勿論人々の関心はどちらが勝つかではなく、いかにチャンピオンがコテンパンにロッキーを打ちのめすのかにかかっていました。

人々に馬鹿にされ、嘲られながら、暑い日も寒い日もハードワークに取り組むロッキーを見ながら、恋人が「何故そこまでして戦うのか」と尋ねる場面があります。するとロッキーは「俺がただのゴロツキじゃないって証明したいからだ」と答えるのです。

どうでしょうか。私たちにもロッキーと似たところがないでしょうか。親から褒められたくて勉強する子ども、自分の能力を認められたくて夜遅くまで働き、出世の階段をのぼろうとする男性。恋人に愛されたくて、自分の弱さを隠し、本音を言わず、相手の望むままに行動しようとする女性。役に立つ者と認められたくて、奉仕に励むクリスチャン。誰もが人から認められ、愛される自分を礼拝し、大切にしているのです。だから、自分を認めてくれない相手を攻撃したり、自分を愛してくれない相手を責めたりするのです。

しかし、私たちの罪の問題はイエス・キリストにおいてすべて解決しました。イエス・キリストは光として私たちの心の闇を照らすだけでなく、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらす救い主です。私たちにとって命の光なのです。イエス・キリストによって、私たちは人を支配する力ではなく、人に仕える力を与えられます。自分の快楽や快適さよりも、弱き人々のために労苦する愛を与えられます。人に認めれようと認められまいと、何が出来ようとできまいと、肩書あろうとなかろうと、この世界を創造した神の子どもとして愛される、そんな神の愛を与えてくださったのです。

 なぜ、イエス・キリストにすべての解決があると言えるのでしょうか。それはイエスが私たちに代わり、十字架で神のさばきを受け死なれたからです。

 今年大ヒットした映画といえば「鬼滅の刃」でしょうか。皆様の中にもご覧になった方がおられることでしょう。「とても良い。感動した。先生も見るべき」という人が多いので、私もアニメ版、劇場版二つを観ました。私が心惹かれたのは、主人公の生き方とイエス・キリストの十字架とが重なる部分です。主人公の炭次郎は鬼によって家族を殺され、生き残った妹禰津子も鬼と化してしまうという苦難の中にありながら、妹を守りつつ鬼と戦う少年です。

 そんな炭次郎が、鬼を倒すため共に戦う鬼滅隊の隊員が死にゆく鬼の顔を踏みにじり、嘲ろうとした瞬間こんな言葉を語るのです。「殺された人の無念を晴らすため、これ以上被害者を出さないため、勿論俺は容赦なく鬼に刀を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ自らの行いを悔いているものを踏みつけにはしない。鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。足をどけてください。酷い化け物なんかじゃない。鬼は悲しい生き物だ。」

 憎んで当然の存在である鬼を可哀そうに思い、自らの行いを悔いる鬼を侮辱し、踏みつけることを赦さない。自分を善、相手を悪として区別して、悪なら倒しても、踏みにじっても、あざ笑っても当然と考える。これがこの世の論理です。その様な中にあって、鬼も自分と同じ人間だったのだからと鬼を可哀そうに思う。そんな炭次郎の生き方に心動かされる人がいるのはよくわかります。

 しかし、イエス・キリストの愛はそれよりも遥かに大きいのです。罪なきイエスは自分を十字架につけ、嘲り、非難し、苦しめる人間たち、しかもその行いを少しも悔いていない罪人達のため十字架に登りました。人間が受けるべき神の怒りとさばきを代わりに受け、痛みと苦しみを忍耐し、その死によって私たちに罪の赦しと永遠いのちをもたらしたのです。私たちの罪がいかに深刻か、同時に罪ある私たちの存在が神にとってどれ程大切なものか。十字架は私たちに示しているのです。

 

ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

クリスマス「神様の羊飼いたちへの思いやり」

  私たちの人生には「思いやり」が必要です。自分のことを愛し、思いやりをもって接してくれる人がいないとしたら、どれだけ寂しい人生となるか。いや、寂しいでは済まない、生きていくのが難しくなります。私たちが思いやりをもって人に接する時、私たちはどれだけ幸せを味わうことになるか。いや、幸せ以上のこと、最も自分らしさが輝く姿と言えます。誰かが誰かを思いやる姿には美しさがあり、感動があります。私たちの人生には「思いやり」が必要なのです。

 聖書が繰り返し教える大事なメッセージの一つは、「世界を造られた神様は、神の民を愛し、思いやりをもって接して下さる」というもの。聖書の神を知らず、信じない。自分のことを愛し、思いやりをもって接して下さる方を無視して生きるというのは、大変不幸なこと。聖書の神様を知っている、信じているということが、私たちの人生にとって、どれだけ大切なことかとも思います。

 キリストの到来を覚えるアドベントを過ごし今日はクリスマス礼拝を迎えました。ここまで、キリストの誕生にまつわる場面の中から、神様が神の民をどのように愛し、思いやりをもって接してこられたかを確認してきました。このクリスマス礼拝では、イエス様が生まれたその日、羊飼いたちに注がれた神様の愛、これ以上ないほど思いやりをもって接せられた姿を見ていきます。この神様が、私たちの神であること。私にも、どれほどの愛と思いやりをもって接して下さっているのかを皆で確認しつつ、イエス様の誕生を祝う礼拝を送りたいと思います。

 聖書の中で、イエス様が誕生したその日のことを詳しく記されているのはルカの福音書二章になります。ルカは一章で、ザカリヤ、エリサベツ夫妻と、マリアを中心にイエス様の誕生までのいきさつを記しました。二章に入り、その冒頭で読者に疑問を抱かせることを記します。全知全能の神様がその力をもって、約束の救い主が飼葉桶に生まれるようにしたという記録です。

 ルカ2章1節、4節

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。…ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」

 

 神様は旧約聖書を通して、約束の救い主がどのようなお方か教えて下さっていました。その中の重要な知らせの一つは、救い主はベツレヘムで生まれるというものでした。ところが、ルカが一章で記したことは、救い主の父母として選ばれたヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレという町の者であったということ。救い主誕生はベツレヘムにて。しかし親はナザレの者。これはどういうことか。二章になって、答えが記されます。出産のタイミングで、皇帝アウグストゥスの勅令により、ヨセフとマリアはベツレヘムへ行っていたというのです。絶大な権力を持ったローマ皇帝アウグストゥス。人類史上様々な権力者がいましたが、歴史上最も権力を持った者の一人に数えられる人。権力者の権力者。その皇帝アウグストゥスの勅令で、イエス様の誕生は預言通りベツレヘムとなりました。

 どれほどの権力者であろうとも神様のご支配のもとにある。神様の力はこの世界のあらゆるものを支配し、神様の言われたことは必ず実現するということです。ルカはその筆を通して、全知全能の神様の力は「罪人を救う」という約束実現へ向けて、間違うことなく完全に働いていると主張しているのです。

 しかししかし、そうだとすると、普通に考えればおかしな記録が続くのです。

 ルカ2章6節~7節

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

 約束の救い主は、誕生してすぐに飼葉桶に寝かされた。衝撃的な記録です。家畜の食べ物を入れる餌箱。一般的に言えば、汚く臭いもの。赤子を寝かせるのに全く相応しくないもの。しかし救い主は飼葉桶に寝かされました。住民登録の勅令によって、多くの人が集まったベツレヘム。マリアは家畜小屋での出産、生まれた救い主は飼い葉桶に寝かされたのでした。ルカはイエス様が飼い葉桶に寝かされた理由を「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と記しています。

しかし、これはおかしいと感じます。何しろこの直前に、皇帝アウグストゥスすら支配する神様の姿が記されているのです。「全世界を支配する方がベツレヘムの宿屋を押さえることが出来なかった」などということが、あるわけないのです。つまりルカが記す「宿屋には彼らのいる場所がなかった」というのは、あくまでも人間の問題を指摘している言葉でした。約束の救い主が誕生するのに、誰も気づかなかった。産気づく妊婦のために部屋を譲る者もいなかった。救い主を無視し自分中心に生きる者たちの世界。それでも神様は救い主を送られたのです。

 このように考えていきますと、イエス様が飼い葉桶に生まれ落ちたのは、この世界の表現で言えば「宿屋にはいる場所がなかったから」ですが、聖書の視点、神様の視点で言えば「神様の目的に沿って」起こったことです。全世界を支配される神様は、意図的に救い主を飼い葉桶に生まれさせた。何故なのか。その理由が今日の箇所に出てくるのです。

 ルカ2章8節~12節

「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」

 

 約束の救い主誕生、人類史上最も重要な知らせが最初に届けられたのは、ベツレヘムの羊飼いたちでした。何故この人たちに伝えられたのか、分かりません。理由が全く分からない。極めて重要な知らせを受け取るのに相応しい立場の人は他にいくらでもいたのではないかと思うところ。何故最初の知らせが羊飼いたちだったのか分からないのですが、しかし、何としてもこの羊飼いたちには救い主に会ってもらいたいと神様が願ったことは分かります。

御使いは、救い主誕生が「今日ダビデの町」でのことだと告げました。まさにこの時、この町でのこと。羊飼いたちが会いに行こうと思えば、すぐに会える場所でのこと。そして「あなたがたのために」救い主が生まれたと指をさします。「いいですか、他でもない、あなたのために救い主が生まれたのですよ。」と。

 

 御使いが告げた言葉の中で特に重要なのは、この「あなたがたのために」という部分です。あなたと関係のない人が生まれたのではない。あなたの救い主が生まれたのですと告げているのです。そしてここでダメ押しとして用意されていたのが例の飼葉桶でした。

 飼葉桶、羊飼いたちにとっての「しるし」。この「しるし」の一つの意味は「目印」ということでしょう。御使いが告げた赤子が誰であるのか、明確に見つけるためのもの。この夜、ベツレヘムに何人の赤子がいたのか分からないですが、当然のこと、飼葉桶に眠る子は他にはいない。飼葉桶に寝ているというのは、この赤子こそ救い主であると分かるための「目印」です。しかし、どの赤子が救い主であるのか示すためだけであれば、他のしるしでも良かったと思います。生まれたてなのに髪が長いとか、特別は服を着ているとか、あるいは住所を告げるという方法も考えられます。そうではなく、飼葉桶に寝ていることがしるしであるのは、もう一つの重要な意味があったから。つまり、「あなたのための救い主」であることを示す意味がありました。羊飼いにとって飼葉桶は自分の生活を示すもの。もし本当に約束の救い主が生まれ、飼葉桶に寝ているとしたら。羊飼いたちにとって、それは自分の生活のど真ん中に来て下さる方。どれほど汚れていても、そのただなかに来て下さる救い主であることがこれ以上ないほど分かる「しるし」となっていたのです。

 

 羊飼いたちに「あなたのための救い主です」と伝えたいと考えた神様は、その力をもって、救い主が飼葉桶に眠るようにされた。全知全能の神様の力は、羊飼いが安心して救い主に会えるように。本当に私のための救い主だと受け止めることが出来るため使われていた。無理矢理ではない。強制するのでもない。羊飼いたちが喜んで救い主に会えるように配慮される神様。このような思いやりの方法があるのかと驚愕します。神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう羊飼いたち。

 罪人のために徹底的に低くなられる救い主、神の民のためにこれ以上ないほど思いやりをもって接せられる神様。御使いの言葉を聞いた天の軍勢が、勢い余って登場し、大賛美をささげました。

 ルカ2章13節~14節

「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」

 

 イエス様が誕生した夜、天の万軍の賛美が鳴り響きました。「神に栄光、地に平和」と。この栄光とは「罪人を救うために神が人となられた」という栄光。「飼葉桶に救い主が生まれた」という栄光。「この救い主はやがて十字架で殺される」という栄光。つまり、徹底的に低くなられる救い主。全知全能の力が愛のために用いられるという栄光でした。金銀財宝に囲まれた王宮で誕生するのが栄光なのではない。神の民を思いやり、飼葉桶に生まれることが栄光である。この聖書の視点を私たちはどれだけ持っているでしょうか。

 今日の交読文、皆で読んだ聖書箇所では、このことが次のようにまとめられていました。

 ピリピ2章6節~9節

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」

 

 そしてこの救い、この愛によってもたらされる人と神様との平和によって、人同士の平和ももたらされる。キリストを信じる者は、互いに平和を作る者となる。互いに思いやりをもって生きる者となる。「天には栄光、地には平和。」私たちも、イエス様の誕生の意味をよく味わいつつ、この賛美をともにしたいと願います。

 さて御使いの言葉と賛美を聞いた羊飼いたちは、救い主に会いに行きます。

 ルカ2章15節~20節

「御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。『さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。』そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

 

 私のために生まれた救い主に会いたい。飼葉桶に眠る赤子に会いたい。この時の羊飼いたちの足取りの明るさ、軽さを想像します。

 ところで、この時のマリアとヨセフの思いはどのようなものだったでしょうか。マリアもヨセフも救い主を産むことを告げられました。マリアには、親類エリサベツとの交わりも与えられました。神が人となる不思議。処女が子どもを産む不思議を覚えながらも、神様の言葉を信じた二人。そしてついに出産を迎えたのです。

しかし、この出産は悲惨でした。いつ出産してもおかしくない状況での旅。初めての出産で、陣痛が始まり、宿屋も見つからない。やっとのことで見つけた家畜小屋で出産を迎える。産み落とされた赤子を寝かせるのに、飼葉桶しかなかった。自分は約束の救い主を産んだはず。たしかに、処女のまま男の子を産むことになった。それにもかかわらず、この状況の悲惨さは何なのか。神様は助けて下さらないのか。この時に宿屋も確保できなかった自分たちに、救い主の親として使命を果たせるのか。途方に暮れるほどの緊張と恐れ、不安の中にいた二人。

 そこに、羊飼いたちが駆けつけてきたのです。知人、友人ではない珍客羊飼いたちが、飼葉桶に寝ている赤子を探していると言う。この不思議。聞いてみると、御使いに告げられて来たこと。それも飼葉桶に寝ていることが「しるし」であったというのです。

 この羊飼いたちの訪問が、マリアとヨセフにとってどれ程の慰めと励ましになったでしょうか。この赤子は本当に約束の救い主であるということ。宿屋を確保することも出来なかったのではなく、飼葉桶に産み落とすように導かれていた。ルカはわざわざ、マリアが「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」と記しています。

 神様が羊飼いたちをこれ以上ない程思いやりをもって導いた結果、約束の救い主は飼葉桶に生まれました。そして、この羊飼いたちの訪問は、マリアとヨセフにとって、これ以上ない程の慰め、励ましとなっていた。私たちの神様は名監督、名プロデューサー、思いやりの玉突きを起こす方。この神様に愛されることが、どれほど幸いなことなのか。世界の造り主である方に、ここまで思いやりをもって接してもらう幸いを覚えます。

 

 人間が神から離れ、神を無視して生きているのに、その人間を救うために救い主が生まれた。神が人となるという奇跡中の奇跡が、罪人を救うためになされた。これだけで考えられない大きな恵みです。しかし、救い主誕生の記録を見ますと、神様はこの出来事にかかわる全ての者に思いやりをもって接して下さっていることが分かります。

 パウロが大声で神様を賛美していた言葉が思い出されます。

 ローマ8章32節

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

 

 救い主を産むマリアには、親類エリサベツが備えられていました。正しい人ヨセフには、絶妙のタイミングで御使いが遣わされました。天文学に通じる東方の博士たちは星が用意され、羊飼いたちには飼葉桶が用いられました。

「何としてでも罪人を救いたい。」「安心して信頼してほしい。」「喜びとともに救い主に会ってほしい。」そのように願われる神様は、ご自身の力を、私たちを愛するために用います。私たちの神様は、思いやりの神様。この神様に愛され、守られ、導かれて今の私たちがあることを覚えたいのです。

 私たちの人生には「思いやり」が必要です。しかし私自身のことを含め、人間の思いやりは様々な限界があります。思いやりをもって接しているつもりでも、どこか打算的、どこか自己中心的に生きてしまう私たち。思いやりをもって接しているつもりでも、相手にとってはそれが悪影響となってしまう私たち。思いやりをもって接し合う関係が築けたと思っても、その関係を壊してしまう私たち。人間の思いやりには限界があります。

 神様の思いやりは無限です。文字通り無限の思いやり。この神様を知らないで生きるのは恐ろしいこと。この神様の思いやりを意識しないで生きるのは悲惨なこと。この神様の思いやりに気づかないで生きるのは勿体ないこと。

 キリスト誕生の出来事に(もっと言えば聖書全体を通して)示された思いやりの神様が、私の神であること。マリア、ヨセフ、博士たち、羊飼いたちに愛と思いやりをもって接せられた神様は、私にも同じように愛と思いやりをもって接して下さることを確認して、救い主誕生をお祝いしたいと思います。

2020年12月13日日曜日

アドベント(3)「神様の博士たちへの思いやり」マタイ2:1~12

 .あいさつ、イントロ

皆さんおはようございます。本日はマタイ2章から「神様の博士たちへ思い遣り」というテーマで説教をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。そろそろクリスマスも近づき幼稚園でも素敵なページェントがありました。子どもたちが演じる役にも様々なものがあるそうですが、年長・ひかり組の愛基の話によると役決めの際には、天使の役に人気が集中して3人の所に9人もの応募があった様です。次の時の話し合いで、先生たちの工夫による他の役へのお勧めと子どもたちの譲り合いにより4人まで希望者は減り最後はくじ引きで決めたそうです。譲ってくれた子どもの優しさや先生たちの柔軟性にも感謝ですが、もしも駄目だったら親しいお友達のいるナレーター役にしようかと考えていた愛基も天使の役をすることができる様になったと言っていました。ちょっと面白いなと思ったのは、一般的にも可愛らしいイメージのあるであろう天使はともかくとして、本来怖い役のはずの「ヘロデ王様」にも人気が集中して3人の中からくじ引きである男の子に決まったそうです。男の子は王様になりたがるのかも知れません。とても上手に役の出来そうな男の子だそうなので、きっと良い味のある役を演じてくれる事と思います(12/11に本番が行われました)。

 

今日の聖書箇所マタイ2章には、イエス様の幼児時代の非常に印象的なできごとが記されます。クリスマス・ページェントでもおなじみのストーリーです。遠い外国の「東の方からの博士たち」が、わざわざ「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝しに来るのに、ユダヤ人の王であるヘロデはその方を殺そうとします。これはメシヤとしてのイエス様の生涯の神の国の宣教に対する迫害をまさに預言している出来事とも言えます。この博士たちの幼子イエス様訪問のエピソードはマタイ福音書にのみ出て来ます。イエス様をメシヤとして描くというマタイ福音書のテーマを強調しています。マタイ福音書でおなじみの旧約聖書の預言の成就であり、キリスト誕生の場所についてのミカ52の成就です。この話では、この世の王であるヘロデと真のユダヤ人の王であり私たちの王であるイエス様の対比を強調しています。そして、マタイ福音書巻末の大宣教命令にあるようにイエス様が全ての民族のメシヤ(油注がれた救い主)である事を示すものです。

 

.東方の博士たち

マタイ2章1節〜2節。

イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

 

「ヘロデ王の時代」とあり、ヘロデ王の在位は紀元前374年と言われます。彼はローマ帝国から任ぜられたイドマヤ(エドム)人という外国人の王でした。「ヘロデ大王」とも呼ばれています。このエピソードはヘロデ王が亡くなる少し前のことだと19節にあり、ヘロデ王の死が紀元前4年と分かっており、その時イエス様はすでに2歳くらいであったと考えられます。そうするとイエス様の誕生は正確には紀元前5〜6年頃と予想されます。もちろん、イエス様の誕生年が今の西暦の基準となっていますから、通説ではイエス様のお生まれは紀元0年という事ですが、実際にはその数年前であったようです。紀元前はアルファベット略語でBC(Before Christ)、紀元後はAD(Anno Domini、ラテン語「主の年に」)というのは一般的にも有名な事ですね。救い主の誕生は教会の中だけに留まらず、今の私たち人類の歴史を2分するような歴史的大ニュースであったという事がよく分かります。

場所は「ユダヤのベツレヘム」。ベツレヘムはエルサレムの南8キロにあるイスラエルの歴史における象徴的な王様ダビデの生まれ故郷として由緒ある町です。ヘブライ語で、パンの家 を意味しており、自らを神のパン・いのちのパン(ヨハネ633,35)と呼ばれたイエス様、ダビデの子孫としてのメシヤであるイエス様のお誕生に相応しい町の名です。

「東の方からの博士たち」とあり、彼らの出身地について昔からいろいろと予想され、黄金、乳香、没薬の贈り物からアラビア地方とするもの、占星術の本拠地バビロンとするもの、またはバビロンを倒し古代に繁栄を誇ったペルシャとするものなどいろいろとあります。占星術は古代においては、天体の運行を観測、研究して暦や農業などに活かしていくという大切な科学でもありました。ですから、博士を表すマゴスというギリシャ語は一般的には魔術師(使徒136)などと訳されますが、ここでは魔術師というよりは博士という訳が相応しいでしょう。英語では“wise men”ESV訳)となっています。

彼らは、その占星学に基づいて、天体の運行の兆しから何か非日常的な出来事が起こった事を悟った様です。彼らは「ユダヤ人の王」の到来を悟り、首都エルサレムのヘロデ王宮へとやって来たのでした。「ユダヤ人の王」になぜ外国人の彼らが興味を持ったかと言えば、かつてのアッシリヤ、バビロン、ペルシャへのユダヤ人捕囚が影響しているでしょう。ユダヤ人たちが捕囚されたり、強制的な移住で散らされた事によって、その地の人々は、メシヤ=油注がれた者 約束の救い主の到来の情報をよく知っていました。そして、その星は幼子イエス様のいる家にまで彼らを導いたのです。

博士たちへの神様のお導き; 本来、ユダヤ人に向けて旧約預言の成就を強調しているマタイ福音書において、最初の救い主への礼拝という最も重要な場面を、外国人の博士たちに任せられたという神様のご配剤・ご配慮というものは非常に興味深い。このことは、将来のイエス様が大宣教命令によって表された『全ての民族の救い主』という点をよく表している。

 

 

.恐れ戸惑ったヘロデ王  〜本当の王はどなたか〜

マタイ2章3節〜6節。

これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

 

 本来のユダヤ人の王朝であるハスモン王家の内紛に乗じて、ローマの元老院に取り入って王に任じられたイドマヤ人ヘロデは、ユダヤ人の支持を得ようとエルサレムの神殿建設や多くの公共事業に取り組みました。王としての正統性を得るためにハスモン家の王女マリアンメと結婚もしました。しかし、その意図は果せず疑いの心から晩年には妻子たちまで処刑してしまいます。ですから、晩年のヘロデは「ユダヤ人の王」誕生の知らせに大きく「動揺し」ました。またヘロデ王の残忍で疑い深い性格を知っているエルサレムの人々も不穏な事態を予測して不安に陥りました。

ヘロデは祭司長や学者たちを集めキリスト誕生の地はどこかと問いただし、彼らはミカ52に基づき「ベツレヘム」と答えます。これは「ベツレヘム・エフラテという小さい町からイスラエルを治める者が出る」という預言の内容の成就でした。引用元の文章では、「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」と言われていたのが、『決して一番小さくはない』と引用の際、あえて変えられているのが大きな特徴です。これはキリスト生誕地となったベツレヘムの価値を強調している表現と考えられます。ベツレヘムは、名高い王ダビデの出身地という歴史はあれど、当時はユダの氏族の中では最も小さいと呼ばれるような極ありふれた一地方となっており、決して経済・貿易や軍事などの中心地では無かったのでしょう。しかし、その様なごくありふれた小さな町に、神様は欠かせない役割をお与えになりました。神様の小さい者へのあわれみがここにもよく表されています。

ヘロデ大王は、救い主降誕に当たり悪役とも言える役割を果たしましたが、政治的にはやり手でもありました。彼はローマに取り入ってユダヤ地域を支配し、33年間もの間ユダヤの王として君臨しました。神殿、宮殿、劇場、競技場を建設し、港の設備を充実させ地中海貿易を盛んにさせました。都市水路も建設しました。しかし、彼は外国人であったため、ユダヤ主義を主張するユダヤ人達からは軽蔑されてもいたようです。問題は、彼の晩年に特に強まった猜疑心の強さです。彼はベツレヘム近辺の2歳以下の幼子を残らず殺させたというエピソード(16節)の様に、とても残忍な面を持っており、疑いの心から家族を初めとして多くの人を殺害しました。イエス・キリストが生まれたのはその最晩年で猜疑心も最高潮に達した時でした。ヘロデの心は己の安泰を揺さぶる重大な事が起こりはしないかと不安でいっぱいでした。彼の頭の中を駆け巡っているのは、常に地上の事でした。そしてそこで自分が成功して自分の繁栄を守る事でした。

ヘロデ王の姿から; ヘロデは自分自身をまさに王としていた(約束のメシヤをも頑なに認めなかった)。またエルサレムの人々もヘロデを恐れるあまり、主の誕生の喜びや主の礼拝への思いよりも、実生活の安定の破壊を恐れた。ヘロデは自分の繁栄を何よりも欠かせない事として第一と考えていた。仕えるよりも支配することを考えて、自分の立場を追われる事を何よりも恐れていた。

(適用)今、私たちの心の中心の王座に座っているものは何でしょうか。自分自身か、お金や財産、他者からの賞賛や名声、もしくは仕事や物事の成功であったり、人からの愛情、生活の安定など、それがいかなるものであれ、本来、適切に用いるならば良いものであったとしても、私たちが神以上にそれを欲するならば、それは私たちの心の偶像となってしまう事があり得ます。私たちは二人の主人に仕える事は出来ないからです。アドベントのこの時に、心の偶像を心の王座から退け、唯一の主であり王であるお方を心の王座にお迎えしましょう。ただ聖霊によってその様な心の一新が可能となります。主はあわれみ深く赦しをもってあなたを今日も招いてくださっています。

 

 

.物語の結末とまとめ

マタイ2章7節〜12節。

そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

 

それからヘロデは、幼子であるキリストの年齢を知るため、いつ星が現れたのか博士たちから「ひそかに」聞き出します。「ひそかに」という言葉に彼の後ろめたい気持ち・何か悪い事をしているという自覚が現れています。「行って拝む」という言葉はヘロデの嘘偽りであることはその後幼子を虐殺した彼の行動からも明らかです。しかし、たとえ人を欺くことは出来ても神様を欺くことは決して出来ません。主は博士たちと父ヨセフに夢で告げられ、ヘロデの悪しき企てはくじかれ、幼子イエス様は難を逃れます。

 博士たちは再び星に助けられてベツレヘムで幼子を見付け出しました。彼らは幼子イエス様を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ、ひれ伏して主を礼拝しました。それらはより、黄金は王に、乳香は聖なる神に、没薬は死者の防腐剤として使われたためにキリストの死を示しているという解釈もされてきましたが、むしろシェバの女王がダビデの子であるソロモンを沢山の黄金や香料を携えて訪問したように「王に相応しい贈り物」という事なのでしょう。そして彼らは夢での主のお告げに従いヘロデの所には立ち寄らずに別の道から帰って行きました。

 

まとめ;博士たちに示された主のあわれみと恵み

こうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を最初に礼拝したのは驚くべきことに外国人である博士たちでした。この逆転はマタイ福音書においては非常に例外的な事でした。マタイの福音書では救いはまずユダヤ人に優先的に示される(「イスラエルの家の失われた羊たち」 マタイ1061524)という事は大前提となっていたからです。時間的・身体的・経済的犠牲を惜しまずにやって来た外国人の博士たちは、イエス様誕生の場所を知りながら行動できなかったユダヤ人の宗教的指導者たち、また殺意を抱くヘロデとは対照的でした。神様が当時の占星術の専門家たちにキリストの誕生を知らせることを良しとしたのは、彼らの熱意と献身をよく見られたからこそと言えるでしょう。もちろん神様が占星術を推奨するという事はありえません。しかし、神様は彼らの救い主を求める心、礼拝を求める心をよく見られ、それを受け止めてあわれみを示されたのです。

小さなものが主の力によって大きくされる、本来相応しくないものが、主の恵みと選びによって礼拝者とされる。王という立場に固執し恐れるヘロデ王とはまさに対照的な姿です。この様に、ヘロデ王に代表される様な『常に自分の力で自分の繁栄を求める、自己の繁栄優先志向の世界』には常に疑いや恐れがつきまといますが、主である神様を王として、神様を礼拝して歩んでゆく道は決して揺るぐ事がありません。キリストは、私たちが造られた目的に従って神様の前で歩むことが出来るように、私たちの罪(自己中心の心、自分を王とし神様から離れてしまう心)の罰を十字架上で代わりに負い私たちを救うために人となってこの地上に来て下さいました。救い主イエス・キリストのお誕生を心から喜び、神様の前に、この様な罪深くまことに相応しくない者が、ただ恵みによって礼拝者とされた事に心から感謝をお捧げし、真の王であるイエス様に心からの礼拝をお捧げしてまいりましょう。

 

辞書には「思いやり(思い遣り)」という言葉は、「相手の立場で考える」、「他人の身の上や心情に心を配ること」とか、「同情」「想像」「思慮・分別」という意味だとあります。

まとめると、他人の立場で物事を考え(状態の理解)、その人の心にも気を配り同情する事(心を理解、共感)と言えるでしょう。全てを知っておられる神様にとって、その人の置かれている状態・心についてはすでに完全に理解しておられるでしょう。神様の思い遣りとは私なりに考えますに、全知である神なるお方が私たちに心を向け、心を汲み取り、共に心配してくださる事に尽きる様に思います。どんなに全てを知っておられる優れた方がいるとしても、心砕いて共感してくださる事なしには私たちにはどうしても癒され切らない部分があるからです。共に心配してくださるお方の象徴的な表現がインマヌエルであり、この言葉もやはりマタイ福音書のみに出てくるものです。

 今日の聖書箇所から、外国人であり占星術を営むような本来で言えば、待望のメシヤへの礼拝者としての優先順位から遠く外れていた博士たちの心を神様はよく見ておられ、彼らの礼拝を求める心への深い共感をもって彼らを豊かに招いて下さいました。また、その彼らのひたむきな姿は、イスラエルの心ある人たちへの悔い改めへの呼び掛けともなった事でしょう。私たち11人の信仰はまことにからし種のような小さなものですが、神様は聖霊の働きによってそれを深い主への信頼へと変えてくださいます。博士たちは宝を携えてやってきました。あなたの人生も神様を礼拝し、主の素晴らしさを証することによって、造られた目的に従って歩むものとされ、まさに人生は宝物とされます。しかし、同時にその様なあなたの人生は主にあって他の兄弟姉妹がたの宝ともなっています。ひたむきに救い主を求め、礼拝を求めていった彼らの歩みの姿のマタイによる記録によってミカ書の預言の実現は証明されました。また、さらには大宣教命令へと続く、イエス様が全ての民族の救い主である事の証明ともなりました。ユダヤ人に向けて旧約聖書からの連続を強く意識して書かれたマタイ福音書で、初めての救い主礼拝を行ったのが外国人であったと意義は誠に大きいと思います。主を礼拝し、神を愛し隣人を愛するあなたの人生はあなたの思いを超える形で用いられ、隣人たちへの宝とも変えられているのです。

 

2020年12月6日日曜日

アドベント(2)「神様のヨセフへの思いやり」マタイ1:18~25

 今朝はアドベントの礼拝の第二回目となります。今年のアドベントは「神様の思いやり」をテーマとして説教を進めています。先週が「マリアに対する神様の思いやり」、今週が「ヨセフに対する神様の思いやり」、来週第三回目が「博士たちに対する神様の思いやり」、そして最後が「羊飼いに対する神様の思いやり」。クリスマスに登場する様々な人々に対する神様の思いやりに目を留めながら、皆でクリスマスの恵みを味わうことが出来たらと願っています。

さて、ヨセフが生きていた時代、ユダヤの国はどのような状況にあったのでしょうか。この時代は旧約聖書最後の預言者マラキが登場してから既に400年が経過していました。この間ペルシャ、ギリシャ、ローマと異邦人の王の支配が続き、人々が苦しんでいたにもかかわらず、神は奇跡を起こして助けることも、預言者を遣わしてメッセージを語ることもありませんでした。神は沈黙しておられたのです。「神は何をしているのか。神は私たちを見捨てたのか。」そう感じる者もいたことでしょう。

もし、私たちがこの様な時代に生きていたとしたら、どんな人生を送るでしょうか。400年もの間神のことばを語る預言者も現れず、神の奇跡も起こらない。将来も見えず、希望を抱くことも難しい。そんな時代にあって、神に対して忠実に歩むことが出来るでしょうか。神に希望を置いて生きることはできるでしょうか。

しかし、そんな時代にありながら、「ヨセフは正しい人で」(10節)とある様に、ヨセフという人は神に対して忠実に生きていたのです。貧しくはありましたが、正しい人としてナザレ村では評判の人物であったのです。さらに、この時ヨセフには許嫁のマリアがいました。当時婚約期間は一年とされていましたから、ヨセフは近づきつつある結婚式を待つばかりだったのです。

けれども、幸せの絶頂ともいえるこの時、突然ヨセフの足元が崩れ、目の前が真っ暗になる様な出来事が起きました。マリヤが聖霊により身ごもったのです。

 

マタイ1:18~19「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

 

現代とは異なり当時子どもの結婚相手は親が決めていました。また、当時の婚約は現代でいう結婚と同じでした。まだ同居は許されないものの婚約者は法律上夫婦と見なされたのです。村の人々も二人を夫婦と考え、見守り、婚礼の日を待っていたのです。それがこの時代の文化でした。

果たして、マリアが聖霊によって身ごもったことをヨセフには分かってもらおうと説明したのか。それとも、すべてを神に任せて沈黙していたのか。聖書は明確にしていません。どちらの可能性もあります。しかし、どちらにしてもヨセフにとっては預かり知らない事であり、どう受け止めてよいのか、悩み苦しんだに違いありません。

 

当時のナザレ村は人口500人。小さな村であり、その多くが親戚関係にあったと言われますから、ヨセフは子供の頃から、マリアのことも両親のことも良く知っていた可能性があります。当時の共同体の人間関係は親密で結束が固く、普段は安心して生活できる場所でした。しかし、一旦罪を犯し、スキャンダルを起こした者には冷たい視線が向けられたのです。

よくマリアのことを知るヨセフですら、マリアに何か忌むべきことがあったと考えるしかない出来事です。まして他の人々がマリアの不貞を疑うことは十分あり得ました。そして、旧約聖書が定めるところによれば、不貞を犯した者には石打の刑、死刑が課せられます。但し、この頃ローマ帝国支配の下、ユダヤ人の死刑執行は禁じられていました。その代わり、石打に代わって世間のさらし者にするような非常に厳しいさばきが定められていたのです。

 

こうした状況の中、ヨセフは密かに離縁することを決心します。「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19節)新改訳聖書は「ヨセフは正しい人で」と読んでいますし、そう読むこともできます。しかし原文では「ヨセフは正しい人であったけれども」と読むこともできますし、個人的にはそう読むほうが良いと考えています。

正しい人とはただヨセフの人柄をさすだけではありません。聖書を学び、律法を守り行うことに忠実な人として、周囲から認められ、尊敬されていたということです。そういう人であれば、むしろマリアを裁判に訴えた方が筋は通ります。その方が世間に対して正しい人としての名誉を保つことが出来るのです。「この問題について私には罪がない。責任がない」と証明するのが普通の正しい人がとる態度だったのです。

しかし、ヨセフはマリアをさらし者にはしたくはありませんでした。悩みに悩んだ末、内密に離縁しようと決めたのです。自分の正しさ、自分の名誉を守るよりマリアを守る。ヨセフのマリアへの思いやりが感じられます。

けれども、ヨセフがマリアと縁を切ったとしても、いつか必ず村中の噂になるでしょう。福音書には、後にナザレ村の人々が主イエスについて「あれはマリアの息子だ」という場面が出てきます。当時は父親の名前で「ヨセフの息子」と呼ぶのが普通でしたから、マリアの息子という言い方には、イエスはヨセフの息子ではないという非難が込められています。また、主イエスを快く思わない宗教家たちも「私たちは姦淫によって生まれたのではありません。」と皮肉を込めて語っています。つまり、ヨセフもマリアも主イエスも、生涯この点で人々から非難や嘲りを受け続けたのです。

 

それにしても、何故神はせめてヨセフに対し、もっと早い段階で真実を伝えてくれなかったのでしょうか。何故悩み苦しむヨセフをそのままにしておいたのでしょうか。

私たちの人生には苦しい事、辛い事が沢山あります。中でも最も苦しく辛いのはどんなことでしょうか。恐らく、自分のことや愛する人に関わることで、人間の知恵や経験、努力が何の役にも立たない、そんな現実に向き合わなければならない事ではないでしょうか。

ヨセフはこれまで聖書の律法を忠実に守ってきました。律法はよいものです。道徳も良いものです。私たちを間違いから守ってくれることもあれば、私たちの行動にブレーキをかけてくれることもあります。しかし、一旦問題が起こった時、正しさだけでは現実に対応できないことがあります。思いやりがなければ窮地に陥った人を救うことはできないのです。

その点、自分の名誉を守るため許嫁を裁判に訴えるという権利を捨て、密かに離縁することでマリアを守ろうとしたヨセフの行動に、私たちも見習う必要があると思うのです。しかし、思いやりに富むヨセフの行動も実は無力でした。ヨセフはマリアをさらし者にしないことを願いましたが、それでもマリアは世間に恥をさらして生きるしかなかったのです。その現実を前にしてヨセフは悩み続けました。新改訳聖書はそれを「思いめぐらす」と訳していますが、この言葉はむしろヨセフの心の中の深い葛藤を意味するものです。その様な時み使いが現れました。

 

マタイ1:20~25「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

 

主の使いは「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」と命じます。しかし、マリアを妻として迎えることは、ヨセフにとって非常に勇気のいる事でした。何故なら、マリアを妻として迎えることによって、マリアに対する人々の非難や嘲りをヨセフ自身も引き受けることになるからです。正しい人として歩み、人々から尊敬されていたヨセフにとって、不貞を犯した女の夫として非難され、嘲られる程辛いことはなかったでしょう。

しかし、たとえそうであったとしても、ヨセフはマリアを守るために自分の名誉を守る権利を捨てたばかりか、彼女に向けられる人々の非難や嘲りを自らも背負うことを覚悟して、神に従ったのです。「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

自分よりも弱い立場にある者を守るため、自分の権利を捨てたヨセフ。自分よりも不利な立場にある者を支えるため、自らも非難や嘲りを受けることを覚悟したヨセフ。本当の正しさとは何か、本当の愛とは何か。それを、私たちに教えてくれる信仰者の生き方がここにあるのです。

 

しかし、ヨセフにとってこの決断は決して容易なものではありませんでした。その心には葛藤がありました。厳しい現実に直面したヨセフは無力を感じ、悩み苦しんでいたのです。そうだとすれば、そんなヨセフを正しい決断に導いたものとは一体何だったのでしょうか。何故、ヨセフはマリアを妻として迎えるという困難な道を選ぶことが出来たのでしょうか。

それは、神の思いやりがあったからです。神ご自身が力を尽くしてヨセフを支えてくださったからです。それでは、神の思いやりとは何だったのでしょうか。

 

第一に、神がヨセフに与えた思いやりとは神のことばです。皆様はみ使いが現れた時、「ヨセフよ」とは言わず、「ダビデの子ヨセフよ」と語りかけたことに気がつかれたでしょうか。何故ダビデの子ヨセフと語りかけたのでしょうか。

マタイの福音書の冒頭(1:1~17)はご存じの通り、イエス・キリストの系図です。その系図が示すメッセージの一つは、キリストはダビデ王の子孫から生まれること、ヨセフもまたダビデ王の子孫であることです。ダビデはその昔イスラエルを統一した偉大な王ですが、実は神はそのダビデ王と重要な契約を結んでいました。

 

サムエル7:11b~13【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子(子孫)をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この時、神はダビデに「あなたの子孫から神が支配する永遠の国を建てる王が生まれる」と約束しました。この時以来、イスラエルの民はダビデの家系から生まれる一人の王を来るべき救い主として待望してきました。ヨセフもその一人であったのです。ですから、「ダビデの子ヨセフ」との語りかけを聞き、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」とのことばを耳にした時、ヨセフは待ち望んでいた救い主の到来を確信することができたのです。

何故自分がダビデの子孫として生まれたのか。何故自分の許嫁のマリアが聖霊によって身ごもったのか。何故自分がマリアを妻として迎えるべきなのかが理解できたと思います。自分たちが直面している苦しみを通して救い主が生まれ、多くの人が罪から救われる。この神のことばに支えられて、ヨセフは苦しみを受けとめ、神のみ心に従うことが出来たのです。

ヨセフと同じく、私たちも神のことばによって人生に起こる苦しみの意味を理解し、受けとめる時、神に従うことが出来るのです。神のことばが私たちの信仰の歩みを支えてくれるのです。

 

第二に、神がヨセフに与えた思いやりは、ヨセフとともにいること、ヨセフの苦しみを担うことでした。主イエスはインマヌエルの神、私たちと共におられる神です。高いところにおられる神の御子が、低いところに来られて人となられた。世界を創造した神が、人間の赤ん坊になられた。私たちはこの事実をどう理解したらよいのでしょうか。

CS・ルイスという人は言いました。「神が人となられるということが、どのようなことかを知りたいなら、あなたがナメクジになった時のことを考えてみるといい。」もし、目の前に一匹のナメクジが現れたら、皆様はそのナメクジを歓迎するでしょうか。素晴らしい存在として、崇めるでしょうか。そんなことをする人はひとりもいないでしょう。私たちはナメクジの存在など気にも留めません。それどころか、虫の居所が悪ければ踏みつぶしてしまうかもしれません。

ユダヤの人々の主イエスに対する反応も同じでした。多くの人々は主イエスの「悔い改めよ。神の国は近づいたから」というメッセージを無視しました。主イエスは飢えと渇きに悩まされ続けました。宗教家たちは主イエスを十字架刑で抹殺し、人々は十字架の主を自称救い主と非難し、あざ笑ったのです。

主イエスは人としてそれらの苦しみ悩みを経験されました。完全に正しい人であるのに、私たちに代わり、罪人として十字架につけられました。人々の非難や嘲りに耐え、神のさばきによる痛みを忍び通して、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしてくださったのです。この時ヨセフが経験していた苦しみも、私たちが人生で経験するあらゆる苦しみをも自ら味わい、誰よりも良く分かってくださる神として、主イエスは私たちと共にこの地上を歩んでくださるのです。

 

このインマヌエルの神、イエス・キリストを、私たちは赤ん坊を腕に抱くように心に迎えることが出来ます。クリスマスの恵みとは、神が共におられるという恵みです。ヨセフがそうであったように、私たちはもうひとりで、悩み苦しまなくても良いのです。十字架の主イエスが私たち共に歩んでくださるのです。それさえあれば、もう何もなくても良いと思える程のイエス・キリストという恵みを、誰もがただで受け取ることができるのです。

このアドベント、私たち一人一人がイエス・キリストを心に迎えるように、愛する人々がイエス・キリストを心に迎えられるように。そう願いつつ信仰の歩みを続けてゆきたいと思います。