2021年1月31日日曜日

信仰生活の基本(5)「献金~喜んでささげる~」Ⅱコリント9:6~8

 ある小学生と信仰告白の学びをしていた時のこと。その日は献金についての学びの日でした。私はその子に自分のお金はいくら持っているか聞いたところ、500円と教えてくれました。全財産500円。

「その500円は誰のものですか?」と聞くと、「僕のものです。」との答え。それはそうです、「あなたの持っているお金はいくらですか?」と聞いて、「そのお金は誰のものですか?」と聞けば、当然自分のものという答えになります。しかし、私はそこで次の聖書箇所を開きました。

 詩篇24篇1節

「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主のもの。」

 

 ここに書いてある視点で言えば、世界中にあるものは全て神様のものです。献金はもともと神様のものを神様にお返しすること。献金は返金とも言えます。

そこで私はその小学生の子に質問しました。「あなたの身体や心は誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。「あなたの持っているものは、誰のものですか?」すると「神様のものです。」との答え。そこで私はもう一度質問しました。「あなたの500円は誰のものですか?」すると「それは僕のものです!」との答えでした。

自分の身体も心も、自分の持っている物も神様のもの。所有権は神様にあると認めても、500円は自分のものである。小学生の素直な応答に、面白く、微笑ましく思えるのと同時に、「お金」が、小学生の心にも多大な影響力を持つことに驚きます。

皆様は「あなたの持っているお金は誰のものですか?」と聞かれたら、「これは神様のものです。」と答えるでしょうか。言葉だけでなく、実際に神様のものとして生きているでしょうか。

 年の始めから信仰生活の基本をテーマに説教を続けてきました。「礼拝」「伝道」「交わり」「祈り」を扱い、今日は「献金」に注目します。聖書はお金について、どのようなことを教えているのか。私たちはささげることにどのように取り組んだら良いのか。ともに考えていきたいと思います。

 

 神様が私たち人間を造られた時、神様を第一として生きる時に最も良い状態となるようにされました。言葉を代えると、神様以外のものを第一として生きる時、私たちは悲惨な状態となります。人生の土台とし、それに向かって忠実に、希望をおいて生きる何か。本当は神様だけしか与えることの出来ない私たちの生きる意味、希望、幸福が、それにあるのではないかと思う何か。それ自体は悪いものではなくても、それが自分にとって「神」となる時、私たちは人生を台無しにすることがある。

 「家族」を大事にする。とても良いこと。しかし家族が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になります。「仕事」を大事にする。それも良いこと。しかし仕事が自分にとって第一となる時、私たちは悲惨な状態になる。「お金」も同様でした。金銭は生きていくのに必要なもの、大事なもの。聖書の中にも、神様が祝福して下さった結果として、財産を得る信仰者の姿が多くあります。金銭も神様が下さる恵みの一つ、お金自体が悪いものではない。しかし、お金を第一とする時、金銭を神とする時、私たちの人生は悲惨なことになるのです。

 ルカ16章13節~15節

「『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。』金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」

 

 イエス様は二人の主人に仕えることは出来ないと言われます。何を第一にするのか。第一にするものを二つ持つことは出来ないのです。そして、この問題は、富以外にも色々と当てはまります。あなたがたは、神と「成功」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「地位」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「恋愛」に仕えることは出来ない。あなたがたは、神と「趣味」に仕えることは出来ない…。色々と考えられる中でイエス様は「神と富に仕えることは出来ない」と言いました。富が多くの人にとって、神様にとって代わりやすいもの、私たちにとって第一となりやすいものだからでしょうか。

注目したいのは「富に仕える」という表現です。本来、富は人が自由に使うもの。富に人格はなく、敢えて主従関係で表現するならば、人が主で富は従なのです。しかしイエス様は、富に仕えることがある、富を主人とすることがあると示唆しています。お金を愛し、お金に信頼を置き、お金を追求する。金銭の奴隷となる、金銭に支配されることがある。いや、そういうこともあるかもしれないという問題なのではなく、はっきりと注意されなければならないほど、身近な問題なのです。

 このイエス様の発言に、金銭を好むパリサイ人たちはあざ笑いました。富に仕える歩みなどするわけないという嘲笑でしょうか。パリサイ人といえば信仰生活に熱心で、生活の細部にいたるまで厳格に聖書の教えを守ることに取り組んだ人たち。聖書を読み、奉仕をし、祈り、礼拝する。人々から称賛されるような信仰生活を送った人たち。その人たちをして、自分の心がどのような状態にあるのか分からなかった。心を知る神様の前で、忌み嫌われる状態にあることに気づかなかったのです。

 

 聖書を読み通しますと、お金に気を付けるようにという注意は、実に多く記されています。いくつも挙げることが出来ますが、イエス様の注意喚起には次のようなものがあります。

 ルカ12章15節

「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

 人のいのちは財産にはない。言うまでもない、当たり前のこと。しかし、このように注意されないと、財産こそ自分のいのちと思う人が多くいる。財産を土台として人生を築き上げ、財産を失うと自分自身を失うかのように感じる人が多くいるということでしょう。そして、それが自分にとって危険である、悲惨であることになかなか気づかないのです。(この言葉の後でイエス様は「愚かな金持ち」のたとえ話をされます。イエス様のたとえ話の中には、理解しづらいものもありますが、この話は非常に分かりやすいもの。人のいのちは財産にはないことを簡潔明瞭に示すたとえ話でした。)

 パウロの注意は牧会者として胸を痛めながらの言葉となります。

 Ⅰテモテ6章8節~10節

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」

 

 金銭に気を付けるように。とはいえ、金銭自体が悪なのではなく、生きる上で必要なもの。それではどれくらいあれば良いのかと言えば、パウロは衣食があれば、それで満足すべきですと明言しています。それ以上欲する人、金持ちになりたがる人は、大変な状態に陥る。これまで、金銭を追い求めた結果、信仰から迷い出て、苦しんだ信仰者を見てきた牧師パウロの必死な注意。

 ヤコブはとても強い言葉で注意します。

 ヤコブ5章1節~3節

「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。」

 

 聖書に記された歴代の信仰者の中には、様々な金持ちがいました。アブラハムも、ダビデも金持ち。ソロモンは人類史の中でも、極めて富が多かった人。お金が多いこと自体が悪ではないと思います。しかしその上で、ヤコブは「金持ちたちよ、泣き叫べ」と一刀両断します。財を蓄えるとは、終わりの日に裁きに会うことなのだと叱責します。とても強い言葉。

 

 他にも色々な箇所を挙げることが出来ますが、このように聖書は繰り返し金銭に気を付けるように教えていました。

 ところで、金銭に気を付けるというのは、他のことに気を付けるより難しいと思います。たとえば聖書は繰り返し、自分の「言葉」に気を付けるように教えています。そして、私たちは言葉で失敗する時に気が付きます。言うべきでないことを言う。言葉で自分も周りの人も傷つけてしまう。その時、自分の罪や悪、自分の問題に気が付きます。

 また聖書が繰り返し警告する問題には情欲、不倫の問題もあります。仮に不倫しているとして、自分が不倫しているのか、していないのか分からないということはありません。自分で悪を行っているという自覚はあるのです。

 ところが多くの場合、金銭について私たちは鈍感です。自分の心が富に仕えているのか、そうではないのか判断がつかない。聖書で繰り返し、お金に気を付けるようにと言われても、それは特別なお金持ちに対する言葉であって、自分には関係ないと思いやすいのです。いかがでしょうか。皆様は自分が富に仕えているかどうか、どのように考えてきたでしょうか。

 

 具体的に金銭にどのように気を付けたら良いのか。どのように自分の状態を判断したら良いのか。その一つの方法は、「喜んでささげること」が出来るかどうかです。

 今日の聖書箇所、第二コリントの8章、9章は、コリントの教会に献金を勧める内容となっています。献金を勧めるにあたって、パウロは丁寧に言葉を記しました。

 Ⅱコリント8章7節~8節

「あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざ(献金)にもあふれるようになってください。私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。」

 

 コリントの教会と言えば、パウロの伝道によって立ち上がった教会。繰り返し手紙のやりとりがあり、何度も行き、長く留まった教会の一つ。手紙の中で、〇〇をしなさい、〇〇をしてはいけない、と命令として記す言葉も多くあります。しかし、この献金については、命令としては言わないと明言します。「命令として、献金してもらいたくない。言われたからやるものとしてもらいたくない。あなたがたの愛が本物であるように。」と言います。

 困窮している人に経済的な支援がいくことが目的であれば、命令でも強制でも良いところ。「使徒であり、教会をはじめた私の言うことを聞きなさい。」と言って、献金を促し、困窮している人を助ける方法もあります。しかし、それはしたくない。何故なのか。それは、コリント教会のことを思ってのことでした。

 命令として献金してもらいたくな。では、どのように献金してもらいたいと言うのか。

 Ⅱコリント8章6節~8節

「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。」

 

 神様は私たちを無条件に愛するお方。私たちが、何が出来るとか、出来ないで、その愛が変わることのないお方。私たちが神様から離れたのに、私たちを救うために一人子を送って下さった方。聖書は繰り返し、神様の愛が無限であり不変であることを教えています。そのうえでパウロはここで、「神は、喜んで与える人を愛してくださる」と言います。

 そしてここに、命令ではなく、献金を勧めていた理由があります。お金に支配されない生き方の一つが、喜んでささげることだからです。いやいやながらでもなく、強制されてでもなく、喜んで自分のものを分かち合う。神様から与えられたものを、他の人のために使う。それこそ、富を支配する生き方であり、神様に愛される生き方なのです。

 

 このように考えますと、富に仕えるとは、自分のために富を使うこと。富を第一とするとは、結局のところ自分を第一とすること。そして、これは罪の性質そのものでした。私が良いように生きる。他の人よりも私が優先される。この思いが富の分野であらわれると、富に仕える者、富を第一にする者として生きることになります。

 罪の奴隷とならないように。富の奴隷とならないように。神の子として生きるように。「豊かに撒く者は豊かに刈り入れます。喜んでささげる者は神様に愛されます。」と勧めるパウロの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

 

 それでは私たちはどのようにしたら、喜んでささげる者として生きることが出来るのか。コリント教会へ献金を勧める中で、パウロが告げた言葉に注目して終わりにしたいと思います。

 Ⅱコリント8章9節

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

 神であるイエス様が人となり十字架で死ぬ。それは、富んでおられた方が貧しくなることだと言います。もしイエス様が富を手放さなければ、つまり人となり十字架での死を選ばなければ、私たちは貧しさの極み、罪の中で死んだままの者でした。イエス様が貧しさを選ばれたので、つまり人となり私たちの身代わりに十字架で死なれたので、私たちは富の極み、天国を継ぐ者となったのです。

 パウロは献金の勧めの件で、この言葉を記しました。つまり喜んでささげる者となる歩みは、イエス様がその富を私のためにどのように用いたのか考えることから始まると言えます。この主イエス・キリストの恵みを知る者は、金銭のことで心配する必要はありません。神の一人子の十字架の死が、神様がどれ程私たちを愛し、守ろうとしているか証明しているからです。もはや、誰かの富をうらやむ必要もありません。神の子とされた私たちは、イエス様の富を受け継ぐ者となったのです。

 主イエス・キリストの恵みを知ること。イエス様が下さる救いとはどのようなものなのか。私は何者とされたのか。神様は、この知識と理解と経験を通して、私たちをいつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者と変えて下さるのです。

 

 以上、お金について、ささげることについて、聖書が教える一側面を確認しました。聖書は繰り返し、金銭に気を付けるように教えていました。いつの間にか、富に仕える歩みとなってしまう。富に対する思い、金銭に対する思いについて、皆で自分の状態を確認したいと思います。

主イエス・キリストの恵みをしっかりと受け取る者として、喜んでささげる者、富の奴隷ではなく神の子として生きていく幸いを皆様とともに味わいたいと思います。

2021年1月24日日曜日

信仰生活の基本(4)「祈り~天の父と呼ぶ恵み~」マタイ6:5~13

  良く問われる問いの一つに「人間とは何か」というものがあります。「人間とは何か」、皆様はこれに何と答えるでしょうか。「人間とは社交的動物である」これは哲学者の答えです。「人間とは道具を用いる動物である」これは文化人類学者の答えです。「人間とは文字を使用する動物である」これは言語学者の答えです。そして、宗教を持つ人は「人間とは祈る動物である」という答えを付け加えなければと言うでしょう。

 普段は神を否定し、祈りなど無意味と唱える人が一旦窮地に陥ると「神様、助けてください」と祈る。友人知人への手紙には「ご家族の健康を祈ります」等と書いて、余り不思議に思わない。この様に祈り心はあるものの、誰に祈るのか、何を祈るのか、いかに祈るのかについては、漠然としていると言うのがこの世の人々の現実ではないではないかと思います。

 

 それでは、神を信じて生きるクリスチャン、祈りを大切にしているはずの私たちはどうでしょうか。手ごたえのある祈りが出来ない。祈りが形式的だと感じる。祈っても何も変わらないように感じる。祈りが苦手。何を祈ったら良いのか分からない。祈りについて悩むクリスチャンは沢山います。牧師同士の話でも、信仰生活の弱点として祈りを挙げる人は案外多いのです。

 しかし、祈りについての悩みを抱えているのは、何も私たちだけではありません。イエス様の弟子たちも祈りについて悩んでいたようなのです。今朝取り上げたのはマタイの福音書の主の祈りですが、ルカの福音書には何故イエス様がこの祈りを教えたのか、その背景が書かれています。

 

 ルカ11:1「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

 

 イエス様の弟子たちはみな、旧約聖書の伝統に沿って祈りの生活を送っていました。けれど、そんな彼らから見ても、イエス様の祈りは心ひきつけられる祈りでした。だからこそ、弟子の一人が「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と願い出たのでしょう。

 ここに示されているのは、私たちはイエス様から祈りを教えてもらうべき存在だと言う事実です。確かに人間には祈り心が備わっています。しかし、だからといって、思いのまま祈ればよいと言うものではなかったのです。私たちは、イエス様から祈りについて教えてもらわなければならない者なのです。

 

 それでは、イエス様の教えた祈りとはどのようなものなのでしょうか。今朝の山上の説教の個所で、先ずイエス様は当時の人々の祈りの姿を取り上げ、その問題点を指摘します。一つはユダヤ人の祈り、もう一つは異邦人の祈りです。

 

マタイ6:58「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」

 

最初に描かれているのは、ユダヤ社会で尊敬されていた律法学者、パリサイ人の祈りです。彼らは神を相手として祈っているように見えながら、実は人々を相手として祈っていました。その頃ユダヤでは、断食、祈り、献金といった宗教的な行いに熱心な人々は尊敬の対象でした。彼らはそれを知っていたので、人々が集まる会堂や大通りの角に立って祈りを行っていたのです。

それに対して、イエス様は「自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と戒めました。本来一対一で神にささげるべき祈りを、人々から尊敬されるための手段として彼らが利用していたからです。イエス様は自尊心を満たすために祈りを行う者を偽善者と呼んでいるのです。

他方、異邦人たちの祈りはどうだったのでしょうか。その祈りは自分たちの願望を満たすための祈りでした。彼らは願いごとを繰り返し、ことば数を多くすれば神が聞いてくださると考えていたのです。その頃異邦人つまりギリシャ・ローマの社会は多神教でした。各々の町に守護神が存在し、人々の礼拝の対象となっていました。学問の神、癒しの神、戦いの神、商売の神、五穀豊穣の神。人々は自分の願うものを神々に祈り求めたのです。

それに対して、イエス様は「彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」と戒めています。異邦人が求めていたのは神がもたらすご利益だったからです。

ユダヤ人と異邦人の祈り、これは他人ごとでしょうか。私たちの祈りの現実ではないでしょうか。イエス様は、私たち人間が、たとえ祈りの対象は異なったとしも、皆同じ罪を犯していると教えています。ユダヤ人が求めていたのは神ご自身ではなく、祈りによってもたらされる人々からの尊敬、評判です。異邦人が求めていたのも神ご自身ではなく、願い事の実現です。

ユダヤ人も異邦人も、つまりあなた方人間は神よりも神が与えてくれるものを愛しているのではないか。あなた方は祈りを自分が利益を得るための手段にしてしまってはいないか。あなた方は聖書の神ではなく、自分の願望や欲望が造り出した神、自分に都合の良い神に向かって祈っているのではないか。イエス様はそう私たちに問うておられるのです。こうして、祈りにおいて現れる私たちの罪の現実を踏まえると、主の祈りの恵み、豊かさがよく分かるのです。

 

マタイ6:9「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』」

 

イエス様が祈る相手として教えられたのは、私たちが造り出した神ではなく、私たち人間を創造した神です。イエス様もそう呼んでおられた父なる神です。父という人格的な神、私たちと交わることをこの上もなく喜びとされる天の父なのです。

 

ローマ8:15「あなた方は人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」

「アバ、父」の「アバ」とは「お父さんとかパパ」という意味の言葉です。ユダヤの子どもは自分のお父さんをアバと呼んでいたのです。私たちの信じる神は決して恐ろしい方ではなく、私たちが親しくお父さんと呼ぶことのできる関係にある神です。私たちを服従だけが求められる奴隷ではなく、愛する子ども、神の家族に迎えてくださった神様です。

我が家の子どもたちが小さかった頃、長島スパーランド、プールに出かけたことがあります。一日遊んで、お風呂に入って、帰りの車に乗り込むと、子供たちは「波の出るプールで溺れそうになった」とか「滑り台が超楽しかった」とか「お風呂にもっと入っていたかったとか」、もう煩いと言うぐらいよく喋りました。そして、喋りたいだけ喋ると、さっさと寝てしまうのです。

そんな子供たちの様子を後ろに感じながら、「お父さんは全部見てたんだから、全部わかっているんだから、うるさくてたまらないから黙っていてくれ」なんて私は思いませんでした。そういう子どもたちの声を聞き、勝手に寝てしまう位楽しんでくれた子どもたちと一緒に過ごす時間が嬉しいんですね。遊園地は暑く、人が多くて疲れたけれど、行ってよかったなあと思える瞬間です。

神も同じです。私たちの神が父であると言うことは、私たちが祈らずとも神はすべてをご存じであると言えるわけです。しかし、私たちの神は祈りという交わりに私たちが入ってくることをこの上もなく、喜んでくださる神様です。私たちが安心して何かを話す。嬉しかったこと悲しかったことも伝える。私たちがそれをすることをこの上もなく喜ばれる神様なのです。

この様な関係は祈りの中でしか生まれません。私たちは祈りを通して、私たちの存在を喜んでくださる神を知ることが出来ます。私たちは私たちの存在を喜んでくださる神を知ることで、さらに祈り、祈ることで神とさらに親しくなるのです。

また、主の祈りは「我らの父よ」と複数形で祈ります。祈りは個人的なものですが、祈りを通して私たちは同じ父を神とする神の家族なんだという思いを深めてゆきます。父なる神の家族とされたことによって、これまで他人でしかなかった方々を、「あなたは私の家族なんですね。兄弟であり姉妹なんですね」そう呼ぶことのできる交わりに入れられたことを喜ぶのです。私たちは主の祈りを祈る毎に、私たちのために祈ってくれる誰かのことを思い出します。私たちも誰かのために祈ることへと導かれてゆくのです。

 

人生において、誰しも自分を見失うことがあると思います。思わぬ冷たい仕打ちを受けて怒り、怒りの感情の中で自分を見失うことがあります。仕事に疲れ果て、自分を見失うこともあります。愛する家族を失い、悲しみの中で、自分を見失うことだってあるのです。その様な時、私たちはどうやって自分を取り戻すことが出来るのでしょうか。

それは天の父への祈りしか方法はありません。天の父よと祈る時、たとえ自分を見失ってしまうような出来事の中にあったとしても、私たちはこの出来事を天の父がどう見ておられるのか、天の父のまなざしをもって出来事を見つめることが出来るのです。私たちはとても狭い視野で出来事を見てしまいますが、天の父がこの出来事を見ておられると思う時、私たちは自分の中にある信仰の未熟さを知り、悔い改めへと導かれてゆくのです。

絶えず祈りの中でこの父の前に立つ時、私たちはどんなに人から認められなかったとしても、天の父は私のことを見守っていてくださると知るのです。たとえ、どんなに自分が自分のことをさばき、責めたとしても、天の父は私を子として愛しておられると知るのです。どんなに私たちが罪の中にあったとしても、天の父は私の罪をイエスの十字架において赦してくださったと信じることが出来るのです。そして、私たちがどれ程心の余裕を失い、生きる意味を見失ったとしても、そんな私たちを我が子よと呼びかけてくださる神に、私たちは主の祈りの中で出会うことが出来るのです。父の神と出会うその時、私たちは見失っていた自分自身を取り戻し、「私の本当の姿は神の子どもであった」と安心することが出来るのです。

さらに、イエス様が神様に対し「天の父よ」と呼ぶよう勧めていることにも注目したいと思います。私たちは何故神様に向かって「父よ、お父さん」と呼ぶことが出来るのでしょうか。

聖書によれば、本来私たち人間は罪のゆえに、聖なる神に近づくことも、呼びかけることもできない存在でした。神に近づくことによって人間は滅びに落とされるべき存在だったのです。

しかし、神様はイエス・キリストを地上に送り、十字架の死に追いやりました。イエス様は自ら十字架にかかり、私たちが受けるべき神のさばきを受けられたのです。罪なき神の御子が、本当なら私たちが受けねばならないはずの苦しみ、痛み、辱めを忍耐し、尊い命を犠牲にしてくださったのです。私たちはあの十字架において示された神様の愛ゆえに、神様を「父よ」と呼ぶ恵みに預かっているのです。私たちが父よと呼びかけないことを、神様は何よりも悲しみ、私たちが父よと呼ぶことを神様は何よりも喜ばれるのです。

イエス・キリストを信じる私たちは、天の父から完全な救いを与えられています。しかし、この地上において私たちの救いは完成しません。私たちの体と心は、救われた喜びで満たされる時もあれば、罪のゆえに苦しみ呻く時もあります。それが私たちの現実です。祈りにおいても然りです。

私たちは祈れる喜びを感じる時もあれば、どう祈って良いのか分からず悩む時もあります。天の父の存在がはっきり信じられる時もあれば、信じられない時もあるのです。神様のみ心に従いたいと思う私がいるかと思えば、と、自分の願望、欲望に流されてしまう、どうしようもない私もいるのです。兄弟姉妹のことを赦さねばと思う私もいますが、許せないと思う私も生きているのです。

しかし、この主の祈りはそんな私たちのための祈りなのです。「み名があがめられますように」と祈ることで、私たちは自分の名誉より、神様の名誉を求めるようになります。「御国がきますように」と祈ることで、私たちは自分の人生をコントロールしなければと言う思いを砕かれ、天の父の支配に人生を委ねることを学ぶのです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈る時、私たちの願いは自分の利益、自分の願いの実現から、神のみ心の実現へと変わってゆくのです。

また、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ることで、私たちは自分の生活の糧だけでなく、貧しい人々の糧のことを覚えます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と祈る時、自分のプライドを砕かれ、受け入れるべき兄弟姉妹の存在を覚えるのです。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ることで、試練に悩む兄弟姉妹の存在を覚え、彼らのために労苦する生き方を選んでゆくのです。

自己中心に生きる者から神中心に生きる者へ、自分のために生きる者から兄弟姉妹と共に生きる者へ。祈りを通して、神様は私たちを造り変えて下さるのです。この一年主の祈りを祈り続けることで、神様が私たちをどのように造り変えて下さるか。皆で祈りの生活の恵みを味わいたいと思うのです。

2021年1月17日日曜日

信仰生活の基本(3)「交わり~一つのからだとして~」Ⅰコリント12:19~27

 私たちは日々、様々なものから影響を受けています。どこに住むか、何を食べるか。どのような知識、どのような技術を手にするか。どのような立場にいるのか、何をするのか。そして、誰とともにいるのか。非現実的な想像ですが、十年前に戻り、全く異なる場所で全く異なる人とともに生きるとしたら、今の自分とは体も心も人格も、大きく異なるのではないかと思います。人間は、環境と周りにいる人から影響を受ける存在。皆様はこれまでの人生を振り返り、自分に大きな影響を与えたものは何だと考えるでしょうか。

 聖書には次の言葉があります。

 箴言27章17節

「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」

 

 鉄を研ぐのには鉄が有用。鉄を研ぐのに、粘土では役に立たないのです。それでは人は何によって影響を受けるのか。私たちは様々なものから影響を受けますが、特に何から影響を受けるのか、何によって研がれるのかと言えば周りにいる人、それも「友」と呼べる親しい存在から、大いに影響を受けるという格言です。

表現を換えると、私たちは交わりを通して変えられる。私たちは交わりを通して、磨かれていくということです。いかがでしょうか。「人」に注目した時、皆様はこれまでの人生で、誰の影響を大きく受けてきたでしょうか。自分に大きな影響を与えたのは誰でしょうか。

 

ところで人から、友から、交わりから受ける影響は、良いものもあれば、悪いものもあります。

 箴言13章20節

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」

 

 私たちは周りにいる人から大きく影響を受ける存在。良い影響、悪い影響を相互に与えながら私たちは生きています。私たちの人生から親しい交わりがなければ、どれ程寂しいものになるかと思います。しかし同時に、交わりを通して、辛く苦しい思いをすることもあります。一般的に、私たちが抱える悩みの九割以上は人間関係に関する悩みと言われますが、私たちは周りの人から多くの良いものを得ると同時に、多くの苦しみも得ることになります。周りの人を祝福することもあれば、周りの人を傷つけることもあります。

 

 強い言葉で気を付けるように教えている、いや、交わりを避けるように教えている箇所もあります。

 Ⅰコリント5章9節~11節

「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」

 

 「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない。」とはだいぶ強い表現。それもわざわざ、「兄弟と呼ばれる者で」と確認されています。これは教会の中で明らかな悪、罪が示されていながら、それをそのまま放ってことのないように。兄弟姉妹が悪から立ち返るように働きかけることを勧める文脈の中で言われている言葉です。

その悪、罪が指摘されても、悔い改めない者たちと、何もないかのように交わりを続けることのないように。悪、罪を悔い改めない者と、そのまま交わらないように。何故交わりを持ってはいけなのか。交わりには、とても大きな影響力があるからです。淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者、そこから悔い改めようとしない者との交わりで、あなたが悪い影響を受けないようにと教えられています。(この箇所の直前で、パン種が粉全体に影響を与えることを例にして、粉全体を良い状態にするために、悪いパン種は取り除くように語られています。また交わりを避けることで、悪、罪を悔い改めないものに、その状況がどれ程危険なのか。交わりを避けることで、さらに悔い改めを促す意味もあります。)

 

 キリストを信じた者は罪赦された罪人。私たちは、神の子とされ、キリストに似る者へ変えられているものの、罪の性質が残っている者。心から大切にしたい、愛したいと願っても、正しく愛せない、傷つけてしまうことがある。このような私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。

 先々週は「礼拝」先週は「伝道」を扱いましたが、今日は信仰生活の基本の中から「交わり」に注目します。聖書は繰り返し、キリスト者の交わりを持つように教えます。しかし、ともかくともにいれば良いというのではなく、目指すべき交わりがあることも示されています。それでは、私たちが目指す交わりとはどのようなものでしょうか。私たちはどのようなことに気を付けて、キリスト者の交わりに取り組めば良いのか、皆様とともに考えていきたいと思います。

 

 私たちが目指す交わりとは何かを考える上で、聖書の色々な箇所を挙げることが出来ると思いますが、今日はまず十字架直前、私たちのために祈られたイエス様の言葉に注目したいと思います。

 ヨハネ17章20節~21節

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」

 

 「大祭司の祈り」と呼ばれる主イエスの祈り。十字架直前、イエス様は目の前にいる弟子たちのために祈り、続けて「弟子たちの言葉を通してイエス様を信じる人々のためにも願います」と祈ります。弟子たちの言葉を通して、イエスこそ救い主であると信じる者。これは、まさに私たちのこと。約二千年前のあの夜、イエス様は私のために祈られていたということに感動を覚えます。(蛇足ですが、復活し天に昇られたイエス様は、父なる神様のそばで、私たちのためにとりなしの祈りをして下さっていると聖書は教えています。二千年前に私のために祈られたイエス様は、まさに今も私のために祈っていて下さる方です。ヘブル7章25節)

それではイエス様は私たちのために何を願われたのか。「すべての人を一つにしてください。」という願いです。ここで「すべての人」と言われていますが、その後で、この「すべての人」とは別に「世が信じるようになるため」と出て来ます。つまり、「すべての人」というのは全人類のことではなく、「キリストを信じるすべての人」という意味です。イエス様は、キリストを信じる者たちが、「一つとなる」ことを強く願われたのです。

 キリストを信じる者たちが一つとなる。私たちが一つとなる。これはどういう意味でしょうか。私たちが全ての点で同じようになる、同じ意見を持つ、似た者となるということでしょうか。そうではないでしょう。

神様は私たち一人一人、異なる存在として造られました。違いは悪いことではなく、むしろ良いもの。教会として集められた私たちが多様であるというのは、教会の大きな魅力です。つまり、「一つとなる」というのは、全ての点で同じようになるという意味ではありません。皆が皆、同じ意見を持つようになることではありません。政治的主張で一つになるわけではない、趣味で一つになるわけでもない、社会的立場や性格で一つになるのでもない。教会は政党でも、サークルでも仲良しサロンでもないのです。

 

 ではイエス様が私たちに願っておられる一つになるとはどのような意味なのか。この祈りの後半で、イエス様は次のように言っています。

 ヨハネ17章26節

「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

 

 一つとなるというのは、私たちの間に神様の愛があること。つまり、キリストを信じる者が「一つとなる」とは、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うということでした。これが、イエス様が私たちに強く願っていること。私たちのための祈祷課題の筆頭に来るのが、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うこと。私たちが一つとなること。これが私たちの目指す交わりです。

 この祈りをささげた後、イエス様は十字架にかかります。罪人を救うため、私たちを救うために。イエス様の十字架への道は、ここで祈られた願いが実現するためのものでした。私たちが、神様の愛を受け取って互いに愛し合う者となるというのは、文字通り、イエス様の命がけの願いなのです。

罪から救われるとは、どのような意味があるのか。キリストを信じると私たちはどのように変わるのか。キリストを信じることを通して、私たちは真実に神様を礼拝する者となり、喜んでキリストを伝える者となり、積極的に交わりに取り組む者となる。イエス様が何を願われ、そのために何をされたのか。今一度、よく確認したいと思います。

 

違いがあることを認め合い、受け入れ合う者となる。多様であればあるほど、良いと認めつつ、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う者となる。イエス様が愛して下さったように、互いに愛しあう点では一致する者となる。この教会の多様性と一体性を、聖書は「キリストのからだ」と表現しました。

 

Ⅰコリント12章19節~27節

「もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」

 

 コリント人への手紙と言えば、パウロが教会とは何かを様々な表現で語った書。教会とは「神の畑」「神の建物」「神の宮」「聖霊の宮」と語ってきたパウロが、ここで「キリストのからだ」という言葉を見つけます。教会は「キリストのからだ」。パウロの書簡には何度も出てくる表現ですが、最初に出てくるのは、この箇所です。

「それぞれ違いがあることが大事であると同時に一体である。」「それぞれ自分のために存在しているのではなく、からだ全体のために存在している。」「体は頭の願う通りに動くもの。キリストのからだとは、キリストの願う通りに生きる者たちである。」「キリストが天に昇られた後、キリストの働きをする者たち。」キリストのからだという言葉の中に、教会の様々な側面を見出すことが出来る言葉。含蓄に富む表現です。

 

私たちは日々の生活の中で、どれだけ自分がキリストのからだであること、周りにいる教会の仲間が同じ一つのからだであることを意識しているでしょうか。私たちは生活の多くの場面で、競争関係の中にいます。学校でも、職場でも、地域の中でも。様々な側面で評価され、比較されます。自分自身も意識的にも無意識のうちにも、周りの人と自分を比較します。競争関係というのは、一つからだとは違います。自分よりも優れているという相手は疎ましく、自分よりも劣っている相手は蔑むことになる。周りにいる人の成功は妬ましく、周りの人の失敗は暗い喜びとなる。このような競争意識が教会の交わりに持ち込まれると、大変辛い教会生活となります。目が手に向かって「あなたはいらない」というような思い。頭が足に向かって「あなたはいらない」というような交わりになってしまう。それは決して、本来のキリストのからだの姿ではなく、一つとなる交わりではないのです。

 これまでの信仰生活を振り返る時に、どれだけ真剣に、キリストの体として生きてきたのか。私たち皆で再確認したいと思います。

 

 以上、私たちが目指す交わりは「神様の愛を受け取り、互いに愛し合う」交わり、「キリストのからだ」としての交わりであることを見てきました。しかし、最初に確認したように、私たちは罪赦された罪人、私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりと、悪影響を与え合う交わりと両方起こり得るのです。どうしたら「キリストのからだ」としての交わりとなることが出来るのでしょうか。今日、交読文として皆で読んだ箇所を確認して、説教のまとめとします。

 ピリピ2章1節~11節

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

 

 私たちの目指す交わりとは何か。どのような思いで教会の仲間に接したら良いのか。この箇所では「何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思う。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる。」とまとめられています。

 そしてこれは、罪人にはとても出来ないことでした。そもそも、罪の性質とは、利己的で虚栄に生きようとするもの。自分こそ優れていると思い、他の人を見下すもの。自分のことだけを大事とするものです。ここに記されることは、私の能力とか、努力で出来るような生き方ではない。イエス様に変えてもらうしか、このような生き方は出来ないのです。

だからでしょう。「キリストにあって」励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、と言われています。愛する人を本当に愛するために。大切な人を本当に大切にするために。キリストのからだとして交わりに生きるために、私たちが真っ先に取り組むべきは、キリストとともにいること、イエス様につらなること、イエス様とともに生きること、イエス様の愛を受け取り続けること、イエス様のいのちで生きること、でした。

 

これ以上ないほど、徹底的に私を愛して下さった。そのイエス様のいのちを頂いたことを忘れないように。キリスト・イエスにある思いを、私たちの間で抱くように。私たちのこの一年が、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う交わりに取り組む歩みとなりますように祈ります。

2021年1月10日日曜日

信仰生活の基本(2)「伝道~遣わされる者~」イザヤ6:1~8

  年が明けてから数回の礼拝にて、信仰生活の基本をテーマとする説教に取り組んでいます。信仰生活の基本のうち、先週は礼拝に注目し、今週は伝道となります。

聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。私たちは、キリスト者にとって伝道することがいかに重要であるか知っていますが、今朝、再度伝道することの意味に注目します。今一度、キリストを信じることで、私たちはどのような者となるのか、皆で再確認したいと思います。

 

 ローマ10章14節~15節

「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」

 

 ある人が主の御名を呼び求めるためには、信じることが必要。主を信じるためには、福音を聞かなければならない。福音を聞くためには、それを宣べ伝える人が必要。宣べ伝える人は、神様から遣わされなければならない。短くまとめると、ある人がキリストを信じるためには、福音が宣べ伝える人が必要である、ということ。

福音を宣べ伝える人がいなければ、信じることが出来ない。言うまでもないこと。当たり前のこと。しかし私たちは、この当たり前のことを当たり前として受け取っているでしょうか。この当たり前のことを日々の生活の中で確認しているでしょうか。

自分の周りにいる人が、キリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要。家族、友人、知人、同僚を思い浮かべた時、その人がキリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要であり、それは自分の役割であると考えているか。問われるところです。

 

 ところで、この当たり前と思えることを著者パウロはイザヤ書を引用して「良いことの知らせを伝える人々の足は美しい」とまとめました。福音を宣べ伝える人の足は美しい。

足が美しい。面白い表現であり、少し違和感があります。良い知らせを伝えるのは、足ではなく口ではないのかと思います。足は伝えることは出来ないはず。

また日本語で「足」というと悪いイメージが多いように思います。「足が付く」といえば、悪事がばれること。「足を洗う」と言えば、悪事から抜けること。「足が出る」と言えば予算オーバー。「足が早い」と言えば、腐りやすい。「地に足がついていない」と言えば、考えや行動が落ち着いていない。「馬脚を現す」と言えば悪い本性がばれること。どうも「足」はイメージが良くない。そもそも足は、一番汚れやすいところ。

 しかし、ここで足は称賛の対象となります。良い知らせを告げる口ではなく、野を越え山を越え、良き知らせを届けた足、それが汚れていても、働きによって汚れた足こそ美しいと。何故、足なのでしょうか。ここで言う「足」とは、良い知らせを運ぶ者の働き、労苦のことでしょう。良い知らせを宣言するのは口でしょう。しかし、宣言するまでのあらゆる働き、その労苦こそ美しいと言われるのです。

 

 引用元であるイザヤ書は次のような内容でした。

 イザヤ52章7節

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」

 

 これはバビロン捕囚からの解放という良い知らせの預言の箇所です。私たちが持っている様々な通信技術のない古代において、知らせは使者が届けるものでした。知らせを届けることは大変なこと。大変な労力を払い、危険を乗り越えて、使者は知らせを届けます。

バビロン捕囚からの解放。奴隷からの解放という良い知らせを届ける者は、喜び勇んで、何としてでもこの知らせを仲間に届けようと努めたでしょう。重要な良い知らせを届けるという役割につけたことを大いに誇るでしょう。待ちに待った知らせを受け取る者たちは、その使者をねぎらい、その働きは美しいと称賛するのです。

パウロはこのイザヤ書の言葉を引用して、福音を伝える者の働きも美しいと言います。ある人に福音を伝えるという時、私たちは様々なことに取り組みます。顔を合わせて聖書の話をするだけが福音を伝えることではない。良い知らせを伝える「足」として、あらゆることに取り組む。その働き全てが美しいですよ、との励ましです。福音を宣べ伝える働きに携わる時、私たちはとても重要なこと、美しい働きをしていると覚えるべきでした。

 

 それはそれとしまして、イザヤ書に記されている良いことはバビロン捕囚からの解放です。それではローマ書にある「良いこと」とは何でしょうか。(この説教の中で、福音とか、イエス様ご自身として話してきましたが、ローマ書がどのように表現しているのか確認します。)それはこの少し前に出てくる内容です。

 ローマ10章11節~13節

「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」

 

 良い知らせの中心は何か。短くまとめるとどうなるのか。それは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という知らせです。聖書の中心的なメッセージ。私たち人間にとって最も重要な知らせ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。この言葉もパウロが引用したもので、預言者ヨエルの言葉です。ペンテコステの際、ペテロの説教でも引用されたもので有名です。

「御名」とは、その人ご自身や、その業績を示すもの。主の御名を呼び求めるとは、神様が私たちにして下さったこと、イエス様の贖いの御業が、私のためであったと告白すること。主イエスが私の救い主であると告白すること。そのように、主の御名を呼び求める者は、誰でも罪から救われるのです。

 

 また「主の御名」以外に救いはないことも聖書は教えていました。

 使徒4章12節

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」との知らせは、積極的な表現ですが、反対の側面もある。つまり、主の御名を呼び求めない者は誰でも滅びるのです。主の御名を呼び求めて滅びる者はいないし、主の御名を呼び求めないで滅びない者もいない。私たち人間の前には二つの道しかない。主の御名を呼び求めて救われる道か、主の御名を呼び求めないで滅びる道か。人はどちらかを選ぶことになる。

このように考えると、聖書の教える良い知らせを伝える働きが、本当に重要であることが分かります。この知らせによって一人の人生が変わる。それも永遠の人生が変わるのです。

 

 ところで、「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。それは神様から遣わされているということ。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」と確認されています。遣わされずに、この良い知らせの使者となることは出来ないのです。

 ここまで、信仰生活の基本として「伝道」を挙げてきましたが、そもそも「伝道」するのは、神様から遣わされた者がすること。私たちは神様から遣わされた者なのでしょうか。

 

 神様から遣わされるとはどのようなことなのか。誰が遣わされているのか。私たちは、神様から遣わされた者なのか。このことを、イザヤが預言者として遣わされる場面から確認していきたいと思います。

 イザヤ書6章1節~4節

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」

 

イザヤが預言者として召される場面。(再召命とも考えられています。)神殿にいたイザヤが幻を見たのか。神殿ごと幻だったのか。どちらか分かりませんが、イザヤは高くあげられた王座に座しておられる主を見ます。神を見るという経験。それとともに、その主を礼拝する御使いセラフィムの姿です。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」御使いの賛美は、凄まじいまでの迫力でした。何しろその賛美の声のために、神殿の敷居のもといはゆるぎ、煙で満ちあふれたといいます。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」神様が神様だから素晴らしい。神様が、神様としておられることが素晴らしい。足も顔も隠す御使いたち。己を隠し、ひたすらに主を賛美する御使いたち。圧巻の場面。

ところで罪ある人間が神様を見る、神様と交わるという時、いったい何が起こるのか。イザヤが経験したことは、まさにこのこと。罪人が神様と交わると何が起こるのか。

 

 イザヤ6章5節

「私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。』」

 

 イザヤは、自分が汚れたもので、その自分が万軍の主を見たために「私は滅ぶ」と言いました。罪ある者、汚れた自分が神を見た、「私は滅ぶ」という感覚。これはイザヤ特有のものかというと、そうではありません。聖書に出てくる何人もの信仰者が同じ告白をし、実際に死んだ記録もあります。(Ⅱサムエル6章など)罪人がそのまま神様と交わるならば死ぬというのが、聖書が教えるところです。

しかし、罪ある者が神様と交わっても死なない方法がありました。イザヤはこの時、その経験をします。

 

 イザヤ6章6節~7節

「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。』」

 

死を覚悟したイザヤのもとに、御使いの一人が飛んできます。手には祭壇の上にあった燃えさかる炭をもち、それをイザヤの口に触れさせる。イザヤが「私はくちびるの汚れた者」と言ったことに対応して、口に炭を触れさせたのでしょうか。この時、御使いは「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」と宣言します。罪が赦される。これこそ人間が神様と交わっても死なない方法でした。

 

つまり、罪ある者が神様と交わるという時、次のうち、どちらかが起こると言えます。一つは「死」。罪ある者が、聖なる神様を見ようものなら死ぬということ。もう一つは「咎が取り除かれる」。罪が赦され、聖なる神様と交わるのに相応しいものにされる。このどちらかでした。そして、イザヤはこの時、罪の赦しを宣告されたのです。

 この罪が赦されるという経験がイザヤにとって極めて重要なことでした。罪を赦された者として、イザヤは遣わされる者として生きていくことになります。

 

 イザヤ6章8節

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」

 

 罪が赦されるとは、どのような意味があるのか。

その一つの意味は、神様と交わることが出来る存在となること。罪ある自分が主を見たために「もうだめだ」と言っていたイザヤが、罪を赦された結果、どうなったでしょうか。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」という主の声を聞き、それに「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と答えます。この近さ。主の声を聞き答える、この交わり。罪が赦されることの一つの意味。それは、神様と交わることが出来るということでした。

 そしてもう一つの意味、もう一つの側面は、使命が与えられること。死を覚悟していたイザヤが、「私を遣わしてください。」と願い出る。何故なのか。罪が赦された者は、神様のことを伝える者、聖書を伝える者となるからです。

イザヤが預言者として召されていく場面が示しているのは「罪が赦された者は、神様と交わる者となり、神様と交わる者は、神様を伝える者となる」ことでした。

 

 ペテロは、このことを簡潔に、次のようにまとめています。

 Ⅰペテロ2章9節

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」

 

 私たちは「良い知らせを宣べ伝えるように」と教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。神様から遣わされているかどうか。では私たちは神様から遣わされているでしょうか。はい、遣わされています。なぜ遣わされていると言えるのでしょうか。キリストを信じているからです。

 キリストを信じる者は、イエス様の御業によって罪から赦された者。私たちは、イエス様によって完全に罪を赦された者です。罪を赦された者というのは、神様と交わり者であり、神様を宣べ伝える者なのです。キリストを信じることで、私たちはどのように変えられたのか。これから何者として生きていくのか。新たな年を迎えて、今一度思いを新たに信仰者の歩みを進めていきたいと思います。

 

 以上、ローマ書、イザヤ書より伝道することの重要性と、キリストを信じる私たちが遣わされた者であることを確認しました。

今、自分が信じている聖書の中心的なメッセージ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という福音を、知り、信じることが出来ていることは、とても大きな恵みであることを、改めて味わいたいと思います。自分が、聖書の福音を信じることが出来たのは、私のもとにこの知らせを届けてくれた立派な「足」があったから。私が福音を信じるために、多くの働きがあったのです。次は私たちの番。良い知らせを告げる美しい「足」となる決意を今日、新たにしましょう。私の周りにいる人を覚え、祈り、教会に誘い、福音を伝える。

私たち皆で、遣わされた者として、良いことの知らせを伝える働きに取り組みたいと思います。

2021年1月3日日曜日

信仰生活の基本(1)「礼拝~この世に派遣される~」マタイ28:16~20

 今年も1月から2月最初の主の日まで、信仰生活の基本的な事柄について説教で扱い、確認してゆきたいと思います。今朝は第一回目、礼拝について考えます。取り上げるのはマタイの福音書の最後、弟子たちが復活の主イエスを礼拝し、大宣教命令を与えられる場面です。

 毎週の礼拝において、私たちは様々な恵みを受け取っています。共に賛美する恵み、共に祈る恵み、兄弟姉妹と出会える恵み、み言葉から教えられる恵み。皆様はこれまでどのような恵みを受けて来たでしょうか。他方、礼拝において、神は私たちにどの様な恵みを備えておられるのでしょうか。礼拝において私たちが受け取るべき恵みとは何なのでしょうか。また、皆様にとって、礼拝と普段の生活は関係しているでしょうか。主の日の礼拝が普段の生活にどの様な影響を及ぼしているのか、考えたことはあるでしょうか。今朝は、神が礼拝において与えてくださる恵みとは何か。礼拝と普段の生活の関係はどのようなものなのか。この個所を通して考えてみたいのです。

 

マタイ28:16~17「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」

 

 弟子たちが集まったのはガリラヤです。主イエスとともに都エルサレムに登った弟子たちにとっては、久しぶりの故郷です。エルサレムで弟子たちは大きな試練にさらされました。

主イエスが都の権力者に捕らえられた時、彼らは蜘蛛の子が散る様に逃げ去りました。裁判が行われた大祭司の家で様子を伺っていたペテロも、「お前もイエスの弟子だろう」と問われるや否や怖くなり、「イエスなど知らない、何の関係もない」と主を否定しました。彼らは自分たちの主を裏切ったのです。

しかし、主イエスは十字架の死から三日後墓の中から復活すると、何度も弟子たちの前に現れ「平安あれ」と語りました。繰り返し彼らと交わり、聖書を開いては十字架と復活の出来事とその意味を解き明かしました。ご自身こそ神が遣わした救い主であることを彼らに示されました。その上で、最初に彼らが弟子として召された故郷ガリラヤに行くよう命じたのです。主イエスは、彼らをもう一度弟子として召し、新しい歩みへと導くため礼拝に招いたのです。

 

マタイ28:17「そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」

 

主イエスが弟子たちを新たな歩みへと導くための礼拝だというのに、「疑う者たちがいた」とあります。復活の主は既に何度も彼らの前に現れ、語っておられたというのに、彼らの中に疑う者たちがいたというのです。

意外とも感じますが、むしろ、こういうところに弟子たちの証言の現実味を感じます。主イエスの復活が、彼らにとっていかに信じがたいことであったか。主イエスと出会い、主イエスの語る言葉を耳にしたとしても、彼らが復活を確信するのに、聖書の教えと聖霊の助けが必要であったことを思います。もし、主イエスの復活が弟子たちの作り話であったなら、主イエスを礼拝するという、このクライマックスの場面で、「ある者は疑った」などという冷めたことを書かないと思うのです。

これは個人的な推測ですが、この福音書を書いたマタイ自身が疑っていた弟子のひとりだったのではないでしょうか。それを後で他の弟子にも話したところ、「いや実はあの礼拝の時、自分もまだ疑っていたんだ」と告白する弟子が何人かいたのでしょう。そうなければ、断定的に「ある者は疑った」等と書けないと思うのです。

しかし、主イエスの直弟子で使徒とも呼ばれるこの11人の中に疑った者等いるはずがない。疑ったのは11人以外の弟子であったに違いないと考える人々もいます。尤もな考えです。けれど、何度読んでもここに11人の弟子たち以外の者の存在が、私には見えてきません。「11人は礼拝した。しかし、ある者は疑った」とあります。11人は皆礼拝したけれど、ある者たちは礼拝しながら疑っていたと読めるのです。もしそうであれば、ここにあるのは私たち自身の礼拝の姿ではないでしょうか。

私たちはいつも完全な信仰をもって礼拝をささげているわけではありません。むしろ、神のことばを信じられないまま礼拝していることもあるでしょう。イエス・キリストが十字架の死によって人間の罪は赦されたと言うけれど、この私の罪は本当に赦されているのか。そんな気持ちを抱いて礼拝することもあるでしょう。主イエスの復活を確信できないまま、礼拝に臨むこともあるでしょう。あるいは、この世の心配事に捕らわれて、礼拝に集中できない時もあるのです。

つまり、何らかの欠けをもった信仰、不完全な信仰で礼拝をささげているのが、私たちの現実ではないかと思うのです。しかし、心打たれるのは、そんな弟子たちに近づく主イエスの姿です。

 

マタイ28:18「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

 

 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられている」とは、主イエスがこの世界の王の王、主の主であるとの宣言です。この後主イエスは天に上り、父なる神の右の座に着くことによって、それを証明しました。

 この時代、王に近づくことが出来るのはごく限られた者たちでした。王が許可を与えなければ、たとえ妻であっても近づくことはできなかったのです。王の近くに行けることはそれほどの栄誉でした。しかし、それ以上の栄誉があったのです。それは、王自らその人に近づき、王自ら賞賛や感謝のことばを語りかけたり、大切な使命を託すことです。

 しかし、この時、王の王、主の主なるイエス・キリストが自ら近づき、語りかけたのは、そんな栄誉に価する者たちだったでしょうか。そうではありませんでした。王なるイエスが近づいたのは、イエスに愛されながら、イエスを裏切った弟子たちです。十字架の死のことも、復活のことも教えられていたにもかかわらず、それを理解せず、信じることもできなかった愚かな弟子たちです。復活の主イエスと出会い、交わり、聖書の解き明かしを聞いていたにもかかわらず、未だ疑いつつ礼拝をしていた者たちを含む信仰者たちなのです。彼らは皆王なる主イエスに近づき、親しく語りかけていただく資格も価値もない罪人だったのです。

 「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた」とあります。主イエスは疑わずに礼拝している者たちにだけ語りかけたのではありません。疑わないで礼拝する者にも、疑いつつ礼拝する者にも近づき、親しく語りかけ、大切な使命を託したのです

信じて礼拝する者も、疑いつつ礼拝する者も、喜んで礼拝する者も、悩みつつ礼拝する者も、私たち自身の姿です。しかし、そんな私たちのところに、主イエスは近づいてこられるのです。主イエスによって信じていた者はその信仰を深め、疑った者は新しく信じる者とされるのです。喜んで礼拝する者も、悩みつつ礼拝する者も、主イエスによって一つにされ、皆この世に遣わされるのです。

 

マタイ28:19~20a「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」

 

40年ほど前のことになります。大学生の私が東京の杉並教会に行き始めた頃、礼拝後の求道者クラスを担当しておられたのはF・フォックスウェル宣教師でした。フォックスウェル宣教師は戦後まもなく来日し、四日市教会の前身高砂町集会を導いてくださった宣教師です。

その求道者クラスから受洗者がでると、フォックスウェル宣教師がこんな証をしてくれました。「私は主イエスの大宣教命令によって日本に来ました。戦後まもなく貨物船に乗ってきました。船にはガードレールもなく、よく揺れました。妻と散歩をしようと甲板を歩くと海に落ちてしまいそうになるので、船底にいることが多かったのです。何日もたち、ようやく船底の窓から夜の明かりが見えた時、心に恐れが満ちて来て、神様、たった一人でも良いです。どうか、私を通してイエス様を信じる人を起こしてください。そう祈り続けました。私の様な者が人を信仰に導くことが出来るのか、不安と疑いを消し去ることが出来なかったのです。洗礼を受けたあなたの存在は、神様がそんな不信仰な私に与えてくださった最高の贈り物です。」

クリスチャンとしての私たちの存在は、主イエスの大宣教命令に従った人々の祈りと労苦によって支えられているのです。

大宣教命令は「弟子にする」という言葉に集約されます。私たちが出てゆくこと、洗礼を授けること、教えること。それらが「弟子とする」という言葉にかかっています。中でも特に大切なのは「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」だと言われます。マタイの福音書では、これまで教えることは主イエスの役割でしたが、ここで初めて教えることが弟子たちに託されたのです。そして、弟子たちが教えるのは主イエスの教え、福音の教え、神の国の教えなのです。

この日ガリラヤの山における礼拝で、弟子たちは近づいて来る復活の主の手とわき腹に十字架の傷があるのを見たはずです。彼らの罪のために主イエスが受けたその傷を見詰めながら、彼らは歩んできた道を振り返り、罪を悔い改めたのです。

弟子たちはそれまで「自分たちの中でだれが一番偉いのか」を考えながら歩んできました。彼らの願いは主イエスと共に都に上り、人々に認められるような存在になることでした。彼らはしばしば「誰が一番偉いのか」について争いました。その度に、主イエスから「神の国で一番偉いのは、人を支配する者ではなく、人に仕える者だ」と戒められていたのです。

その願いが十字架によって潰えた時、彼らは主イエスに従うことをやめました。主イエスのもとから離れ去りました。つまり、彼らは主イエスに従うよりも、都の人々に認められるような存在になりたいという自分の願望に従っていたのです。彼らは主イエスを愛するよりも、人々に認められる地位や肩書を持つ自分を愛していたのです。

この自己中心の信仰は決して他人ごとではありません。この世を歩む私たち自身の姿でもあります。私たちも主イエスに従うと言いながら、自分の願いや欲望に従って歩んではいないでしょうか。主イエスを愛すると言いながら、人々に認められる様な自分を愛してはいないでしょうか。「人に仕える者となれ」と命じられながら、人を支配しようとしているのではないでしょうか。

けれども、礼拝において、そんな私たちに主イエスは親しく近づき、変わることのない愛を示してくださいます。主イエスの前で私たちは罪を悔い改め、罪の赦しの恵みを受け取ります。主イエスの恵みによって遜り、人に仕える者へと造り変えられてゆくのです。

大宣教命令とは、礼拝において罪を悔い改め、主イエスの福音を信じた私たちが、この世にあって主イエスの教えに従って生きることです。この世の価値観ではなく、主イエスが教える価値観によって生活することなのです。礼拝において、私たちは主イエスの弟子として召され、みながこの世の生活へと遣わされるのです。

主イエスの弟子とは、日曜日は信仰によって生き、普段の日はこの世の価値観によって生きる者ではありません。日曜日は福音中心、普段の日は努力と行い中心でもないのです。礼拝で受けとる十字架と復活の福音が、常に私たちの歩みの中心になければならないのです。礼拝とは、罪人を生きかえらせ、主イエスの弟子としてこの世に遣わすため、神が与えられた恵みの時なのです。

しかし、私たちは唯一人この世に出てゆくのではありません。主イエスが共におられるのです。

 

マタイ28:20b「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 

主イエスによる救いのわざは二千年前完了しました。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの救いと信仰の歩みに必要なすべてのものは、主イエスのもとにあることが示されたのです。

しかし、だからと言って主イエスは私たちから遠く離れてしまわれたのではありません。遠く離れるどころか、世の終わりまで私たちと共にこの地上にあり、私たちと共に困難多きこの世を歩んでくださると約束しているのです。

主イエスは、人々を恐れある家に身を隠していた弟子たちのところに現れ、平安あれと告げました。この目で見なければ信じないと語る、不信仰な弟子トマスに近づき「わたしの体に触って見なさい」と勧めました。主イエスが十字架で死なれたことに失望した弟子たちに現れると、聖書を開いてご自分のことについて解き明かしをされました。主イエスは、ガリラヤ湖での夜通し働いて疲れ切った弟子たちのために、朝の食事を用意されました。主の弟子としての資格なしと苦しむペテロの前に現れると、その愛によって彼を慰め励ましました。

私たちが人を恐れる時、不信仰に陥る時、失望している時、仕事をしている時、疲れ切っている時、空腹の時、悩む時、主イエスはともにいてくださるのです。たとえ主から離れても、何の働きがなくても、主イエスが私たちを切り捨てることは絶対にないのです。これからの一年、主の日の礼拝において、私たちは共におられる主イエスの存在を確認し、主イエスの弟子として、各々の家庭、職場、社会へと出てゆきたいと思うのです。

2021年1月1日金曜日

元旦礼拝「求めるべきもの」ルカ11:9~13

 新年明けましておめでとうございます。皆さまとともに元旦礼拝を奉げることが出来ること、大変嬉しく思っています。

 一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。その人が何者として生きようとしているのかは、その人の願いに示される。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。これから一年「何を求めるのか」考えるというのは、自分は何者として生きたいのか考えることになります。日々の生活の中で私たちは大小様々な願いを持ちますが、自分の中心にある願いは何なのか。自分は何を求めて生きてきたのか。これから何を求めて生きるのか。今日考えたいと思います。そのうえで、聖書は私たちに何を求めて生きるように勧めているのか、皆で確認したいと思います。

 

「願う」ことをテーマに今朝皆様とともに確認したい聖書の箇所はルカの福音書11章です。ルカの11章は、前半は祈りがテーマとなっている箇所。その冒頭で、お祈りの手本として、「主の祈り」が教えられます。

 ルカ11章1節~4節

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」

 

 イエス様が祈っている姿がとても印象的だったのか。自分の祈りの貧しさを覚えたからなのか。弟子の一人が、祈りを教えて下さいと願います。この弟子が誰なのか記されていませんが、私たちからすると「よくぞ聞いてくれた!」と拍手喝采の質問。この質問に答えて、イエス様が教えられたのが「主の祈り」です。

 神の一人子が教えてくれる注目の祈り、大きく前後半に分けることが出来ます。そして前半が驚愕の内容、神様のための祈りなのです。祈りとは自分の願いを叶えるためのものと考える者にとっては、考えもつかない祈り。「まさか、神様のために祈ることがあるとは!」と膝を打ちます。祈りの本質は、神の子として父に話しかけること。父の喜びを自分の喜びとする、自分の願いを父の願いに合わせていく。「主の祈り」は祈りの神聖さを教えられます。

 この主の祈りを教えられたイエス様は、続けて「真夜中の友人」と言われるたとえ話を語ります。祈りがテーマのたとえ話ですが、とても興味深いもの。主の祈りの神聖さとはうってかわって、コミカルな印象のたとえ話です。真夜中に、旅をしている友のためにパンが必要になった。自分はパンを持っていないので近隣の友のところに行き、パンを求める。何しろ、当時はコンビニエンスストアなどありませんので、どうしても必要な時は友に頼るしかないのです。真夜中にそのようなことをするのは、頼られる方にとって迷惑なこと。断られるのが普通。友情、義理人情でパンを貰うことは出来ないでしょう。しかし、あくまで頼み続けるならば、そのしつこさによって、パンを貰うこともあるでしょう、というたとえ話なのです。

 

 ルカ11章5節~8節

「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。』」

 

 祈りがテーマのたとえ話において、しつこさが勧められている。何とも意外です。常識に反する程のしつこさ、無理強い、ゴリ押し。「これはかなわない」と神様が降参するような祈りを、神様ご自身が求めておられる。これが他ならぬイエス様の口から出たたとえ話というのに驚きますが、父なる神様を困らせるようなたとえ話は、その一人子であるイエス様にしか出来ないとも言えるでしょうか。(このたとえ話は、私たちに祈ることの大切さを教えるものです。私たちにとって父なる神様が、このたとえ話に出てくる近所の人のような存在であると教えているわけではありません。)

 

 「主の祈り」「真夜中の友人」と続いて、祈りについてさらにイエス様の勧めがあるのが今日の箇所となります。

 ルカ11章9節~10節

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 

 非常に有名な言葉。「求めよ、探せ、叩け」と言われます。原典ギリシャ語を直訳するならば、「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」となっていまして、先の「真夜中の友人」のたとえ話の延長にある勧めという印象です。辛抱強く、粘り強く、祈ることが勧められているわけです。

 そして、祈り続ける結果、求め続ける、探しまくり、叩きぬく時に、それは与えられると言うのです。「求める者は得、尋ねる者は見出し、叩く者は開かれるなり。」とです。

 

 イエス様が、私たちに求めていることは、祈り続けること。それは分かります。「真夜中の友人」という仰天するようなたとえ話、続いて「求め続ければ与えられるぞ」との言葉。

神様は私のことをよく知っているのだから、祈らなくても良いではないか。私よりも、私に必要なものをご存知なのだから、私が願う必要はないではないか。私が悔い改めていること、感謝をしていることは、神様は知っているのだから、敢えて口に出さなくても。などなど、達観したかのような顔をして、祈らないというのは良くないこと。祈り続けることが求められているのは分かります。

 

 しかし、それでは何を祈るのか。「求め続ければ与えられるぞ」と言われ、何を求めるのでも良いのか。辛抱強く、粘り強く求めていれば、どのような願いでも叶えられるのか、という疑問が沸いてきます。自分の欲望のままに、神様に求め続けるので良いのか。内容はともかく、求め続けることが大事ということが、果たしてあるのか。

 

 聖書には次のような言葉があります。

 ヤコブ4章2節~3節

「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」

 

 願わないことの問題と、願うにしても、何をどのように願うのかが問題とされています。そしてここで、求めても受けられないことがあると、明確に教えられています。求め続けても与えられないことがある。そうだとすれば、「真夜中の友人」のたとえ話や、「求め続ければ与えられる」という言葉は、ともかく願い続ければ願いが叶うと教えているものではないということです。求めるべきものがあり、それを求め続けるように教えているたとえ話、言葉であると分かります。それでは、私たちが求めるべきものとは何なのか。

 

 ルカ11章11節~13節

「『あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。』」

 

 地上の親でさえ、子の求めに応じて良いものを与えるのであれば、天の父は尚更のこと。天の父は求めるものに「聖霊」を下さらないことがあるでしょうか、と言われます。良いものを下さる神様は、求める者に「聖霊」を与えて下さらないことはない。つまり、私たちが求めるべきは「聖霊」だと教えられるのです。

 それでは「聖霊」を求めるとは、どのような意味でしょうか。聖霊なる神様は、私たちに様々な恵みを与えて下さいます。中でもキリストを信じた者に与えられる恵みは、聖書のことを良く理解することが出来る恵み。神様のことを知ることが出来る恵み。神様を信頼することが出来る恵み。神様に従うことが出来る恵み。神の子として喜んで生きていくことが出来る恵みを下さる。聖霊を求めるとは、このような恵みを下さる聖霊を求めることと理解出来ます。また「聖霊」とは三位一体の第三位各の方。神様ご自身です。聖霊を求めるとは、神様ご自身を求めることと理解出来ます。

 私たちが祈り続けるべきこと、求め続けるべきことは、「神様、あなたのことをより知ることが出来るようにして下さい。」「神様、あなたとともに生きる人生を送らせて下さい。」「神様、あなたを信頼することを身につけさせて下さい。」「神様、聖書の知識を頭だけでなく、全身全霊で受けとめる者であらせて下さい。」「神様、あなたご自身を私に下さい。」ということです。

 神様が私たちに求めていることは、「神を求める」こと。求め続けること。そうすれば、与えられると約束でした。神様を知ることを求めるように。神様を信頼することを求めるように。神様ご自身を求めるように。求める者に、聖霊を下さらないことはない。このキリストの命令と約束に、私たちはどのように応じるでしょうか。

 

 「神を求める」こと。これは、この箇所だけで言われていることではなく、聖書の様々なところで、私たちに命じられていることです。

そもそも、人間が「神のかたち」に創られたというのは、「神を求める」存在として創られたということでした。私たちが創られた目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。

ところが人間は堕落しました。罪の結果、人は神様以外のものを求めるようになりました。財産、地位、名誉、快楽。もともと「神を求める」存在であった者が、他のものを求めるようになること。これが聖書の教える罪の本質でした。その罪人がキリストによって救われた結果、「神を求める」生き方となります。罪からの解放とは、神様を求める人生へとなるという側面もありました。つまり、キリストが私たちを救う目的は、私たちが神を求めて生きる存在となることです。

このように考えると、創造の御業も、贖いの御業も私たちが神様を求める者として生きるためにあると言うことが出来ます。私たちが神を求めて生きることを、神様はどれ程願われているのか。

 

 神を求めるように。そうすれば、神様を見出すというのは、聖書で度々語られてきたメッセージです。多くの箇所がありますが、有名なところをいくつか挙げますと、

 イザヤ55章6節~7節

「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

 

 また次の箇所もあります。

 エレミヤ29章12節~14節

「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。」

 

 詩篇の中には、神様が下さる最大のものは、神様ご自身であると告白する祈りが多数出てきます。

 詩篇73篇26節

「この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。」

 

 私が頂く永遠の相続は、神様ご自身である。驚きの告白ですが、これこそキリスト者の最大の幸いでした。

 神様が私たちに願われているのは、私たちが神様を求めること。求め続けること。そして、神様ご自身を受けるということが、どれ程私たちにとって幸いなことなのか。聖書全体で教えられていることでした。

 

 新しい年を迎えた私たち。喜びと期待を持ってこの一年を生きるために、私たちが取り組むべきことは何か。一つの大事なことは、神を求めること。神様を求める。神様をより知る者となるように。神様を信頼して生きることが出来るように。神様ご自身を下さいと願う。何しろ、その祈りに答えると約束されているのです。この一年、私たちは何を願って生きるのか。何者として生きていきたいのか。どのような年にしたいのか。一年の抱負や目標を考える時に、神様を求めることを忘れないようにと思います。

私たち皆で、神様をもっと知りたい。神様を信頼する経験をもっと味わいたい。そのような神様への渇望を持ち続ける者となりたいと思います。2021年が終わる頃、この一年は何をしたのかと自分で振り返る時、神様を求め続けたと言いたい。いや、この一年だけでなく、生涯を通して、神様をより知る者となる歩みをしたい。「あなたは誰ですか。」と問われた時に、「私は神を求める者です。」と答えたいのです。

「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」とのキリストの勧めに応える歩みを、私たち皆でしていきたいと思います。